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初出社の朝、クリストルンは見事に道を間違えた。
「こっち曲がったら近道って言ったの誰!?」
誰もいない角に向かって叫び、すぐに自分で答える。
「昨日の私だ!」
春の朝は明るいのに、本人の顔色だけがどんどん悪くなる。地図アプリは親切だが、慌てる人間の指先は親切ではない。曲がるべき道を二度通り過ぎ、ようやく白椿トイズの本社ビルが見えたときには、開門の音が聞こえる時刻だった。
「間に合って、お願い……!」
全力で走って正面玄関へ飛び込もうとした瞬間、角を曲がってきた男性と正面衝突した。
「わっ!」
「危ない!」
書類が舞った。
クリストルンは床に散った紙を拾い集めながら、反射的に頭を下げる。
「すみません! でも言い訳していいですか、初日で、地図が、坂が多くて」
「順番に話せ」
落ち着いた声だった。見上げると、きっちりしたスーツに身を包んだ青年が、しゃがんで紙を拾っている。目元は涼しいのに、しわ一つない書類の角をきっちり合わせる手つきに、変な真面目さがにじんでいた。
「すみません、本当に」
「新入社員か」
「はい。企画部配属のクリストルンです」
「走る前に、周りを見る習慣をつけろ。社内でも使う」
言い方は厳しい。けれど、拾った書類を渡す手は乱暴ではなかった。
そこへ、明るい声が割って入る。
「朝からにぎやかねえ。新人さん?」
現れたのは、まとめた髪の似合う女性だった。背筋がすっと伸び、笑っているのに人を見る目が鋭い。
「はい! 本日からお世話になります!」
「元気でよろしい。私はエマヌエラ。研修担当よ」
クリストルンがほっと息をつくと、隣の青年は少しだけ眉を上げた。
「……エマヌエラさん、遅れます」
「あなたがそこで説教するからでしょ、ルチノ」
その名を聞いた途端、近くを通った社員たちの空気が変わった。
「ルチノ主任、おはようございます」
「おはようございます」
自然に頭が下がるその様子に、クリストルンは目をぱちぱちさせる。
「主任?」
エマヌエラがさらりと告げた。
「企画部主任。ついでに社長の息子」
クリストルンの動きがぴたりと止まる。
「……今、もう一回言ってもらっていいですか」
「だから、社長の息子」
「ぶつかった相手が?」
「そう」
「終わった……」
クリストルンはその場でしゃがみ込みそうになった。
ルチノはため息を一つつき、腕時計を見た。
「終わってない。始業三分前だ。立て」
「はい!」
「それと」
「はい!」
「会社の前で玩具の話を熱弁するのは、入ってからにしろ」
「……聞こえてました?」
「全部な」
耳まで赤くなったクリストルンの横を、ルチノは先に歩いていく。
その背を見ながら、エマヌエラが小さく笑った。
「面白くなりそうね」
クリストルンは胸ポケットのリボンをそっと押さえた。
緊張と失敗で頭はいっぱいなのに、なぜか心は少しだけ前を向いていた。
空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙