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「え?」
携帯電話を手にしたまま、私は顔を上げた。
視線の先には、白衣の裾を翻しながらこちらへ向かってくる夫の姿。
その表情には、はっきりと怒気が浮かんでいた。
「遼……どうしたの? そんな怖い顔し――」
「亜紀!
なぜ俺に黙って奥田さんを消化器へ転棟させた!」
私の声を叩き切るような、夫の鋭い声が医局に響いた。
「え? 奥田さん?
消化器って……」
「さっき師長から聞いた。
あの患者の治療方針は、まだ内科に委ねたわけじゃない。
オペの適応についても家族は理解している。それなのに、なぜ消化器へ渡したんだ!」
「ちょっ、ちょっと待ってよ!
一体、何の話をしてるの?」
激しい口調に気圧され、私は思わず身を縮めた。
「消化器へ転棟って……
誰が?」
戸惑いながら問い返す。
「誰がって……主治医のお前がさせなくて、他に誰がやるんだ!
あれくらいの肝機能障害は、薬物療法による一時的なものだと、お前にも判断できるだろ」
「違う違う。
歩ちゃんを転棟させたのは、亜紀さんじゃない。
俺だよ」
直江先生は横からひょいっと顔を出し、へらりと笑いながら片手を挙げた。
「「えぇっ!?」」
私と麗香の声が見事に重なった。
「何だと?
直江……なぜお前が奥田さんを……」
夫は眉間の皺をさらに深く刻み、低い声を絞り出した。
「歩ちゃんさ、宮坂先生が怖いんだって。
ほら、あなた、すぐにバッサバッサ体を切り刻むでしょう?
いたいけな女の子の体に傷を残しちゃ駄目だよ。
……あっ、怖いのは亜紀さんじゃないよ。その怖い顔してる宮坂先生の方ねっ」
直江先生はソファーへ腰を下ろしたまま、人懐っこい笑みを浮かべた。
「お前……ふざけてるのか。
奥田さんは、お前には関係ないだろ」
「悠希、そんな勝手なことして許されるはずないでしょ?
主治医は亜紀なんだから」
この険悪な空気はさすがにまずいと感じたのだろう。
他人の揉め事が大嫌いな麗香も、遼の怒りを宥めるように落ち着いた口調で割って入った。
「近々オペが必要なら、なおさらだよ。
消化器専門の俺が歩ちゃんの肝機能を管理する。術前精査も含めてね。
俺は主治医のサポート役に回る。
それでいいよね? 亜紀さん」
直江先生は私へ満面の笑みを向けると、何かの合図を送るように指でOKサインを作ってみせた。
「あいつ……まさか……」
私の隣で、麗香が夫には届かないほど小さく呟く。
え……?
まさかって?
「………」
あっ……
もしかして……
私の治療方針を、遼から守るために?
「……」
私は笑顔を浮かべる直江先生を、ただ黙って見つめた。
「何が『体に傷を残しちゃ駄目』だ。
お前だって、人の体にメスを入れる外科医だろ」
夫は直江先生を小馬鹿にするように、ふっと鼻で笑った。
「俺はあなたとは違う。
患者に必要以上の血は流させない。傷も残さない。だから内視鏡下手術のプロを目指してる。
歩ちゃんは開胸手術なんて望んでないよ。
十六歳の心臓にメスを入れるのは早すぎる。
俺は、亜紀さんが考えるカテーテルでのステント治療に賛成なんで」
直江先生は夫を見上げてそう言うと、再びにっこりと微笑んだ。
医局内にぴりぴりとした空気が漂う。
沢井くんを含め、黙々と仕事をしていた数人のドクターたちは、見て見ぬふりをしながらも手を止め、二人のやり取りへ聞き耳を立てていた。
「……くだらない。
それこそ、お前が口を出すことじゃない」
夫は呆れたように言い捨てると、
「亜紀。
消化器にコンサルトするなら、そいつじゃなく他のドクターにしろ。
そんなチャラチャラした奴に構うな」
そう言い残し、扉へ向かって歩き出した。
「チャラチャラした男!?
それは言い過ぎだよなぁ?」
直江先生は眉を寄せ、ふんっと鼻を鳴らす。
「そう?
言い足りないくらいでしょ」
麗香は素っ気なく言い返した。
「待って、遼! まだ話が!」
私は二人のやり取りを背に、夫の後を追いかけた。
「遼! 待ってってば!」
廊下へ出たところで、背を向ける夫の白衣を掴んだ。
「奥田さんのことは、また合同カンファで検討しましょ。
とりあえず、肝機能が落ち着くまで待ってほしいの」
白衣を掴む手に力を込め、私は夫の横顔を見つめた。
夫は渡り廊下へ視線を向けたまま短くため息をつき、それからゆっくりと私を見た。
「で?
それまで、あの男に任せるのか?」
「え?」
「直江悠希だ。
あの男に任せるのかって聞いてるんだ」
首を傾げる私へ、苛立ちを隠さない口調で問い返す。
「あっ、そのことか。
それは……
今さら違う先生にお願いするのもおかしな話だから、直江先生にそのままお願いしてもいいかなって思ってるけど……。
直江先生って、確かにチャラチャラしてるけど、仕事に関しては意外と評判いいみたいだし」
先ほどの直江先生の言葉が残っていたのだろうか。
私は気づけば、とっさに彼を庇うような返事をしていた。
――しまった。
火に油を注いでしまった。
そう気づいても、もう遅かった。
「……そうか。だったら勝手にしろっ」
夫は目を吊り上げ、さらに冷たい言葉を投げつけると、私が掴んでいた白衣を翻して再び歩き出した。
「あっ!
今夜は? 何時頃になる?
雪も降ってるし、一緒に帰らない?」
私は小走りで追いかけながら、夫の背中へ声を掛け続けた。
瑠璃マリコ
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桃下結衣
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コメント
1件
直江先生、めっちゃかっこよかったっすね…! 「亜紀さんを守るために自分が矢面に立つ」って、あのチャラそうな雰囲気からのギャップがやばい。 遼さんの冷たい態度もリアルで、夫婦のすれ違いが切なくなる。 でも亜紀が直江先生を庇う返しちゃうところ、心情わかるわー。 続きめっちゃ気になる💦