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「今日は待機当番だから、当直室に泊まる」
「泊まる?」
「雪が積もったら緊急時に困るだろ。
泊まった方が明日も楽だしな」
「あ……そうか。そうだよね」
私は目尻を下げ、しおらしく頷いた。
「吹雪きそうだな。早めに仕事を切り上げて帰れよ。
明日の朝は地下鉄も混雑するだろうから、遅刻しないよう数本前の電車に乗れよ」
夫は窓の外を見つめ、目を細めた。
いつの間にか粉雪は大きな結晶へ姿を変え、中庭の木々へ静かに積もり始めていた。
「うん。
あと一つ病棟を回ったら帰る」
夫を見上げ、小さく微笑む。
「じゃあ、また明日な。俺もオペ後患者の回診に行ってくる。
戸締まり忘れるなよ」
夫はふっと鼻で笑うと、白衣のポケットへ手を入れ、私から視線を外した。
「分かってるって。
子供じゃないんだから」
このまま立ち去られたら、後味が悪すぎる。
彼の笑みを見て、私はそっと胸を撫で下ろした。
……そっか。
今夜は待機だったんだ。
電車は混むだろうし、遼の車で帰れるかと思ったのに。
残念。
夫の背中を見送ったあと、私は医局へ続く廊下の床へ視線を落とし、小さく息をついた。
「亜紀さん。
あんな威圧的な男と暮らしてて疲れない?」
その声に顔を上げると、医局の扉にもたれ掛かる直江先生の姿が目に入った。
「……直江先生には関係ありませんから」
私は眉を寄せ、唇をきゅっと引き結んだ。
直江先生は私の表情をじっと見つめる。
まただ……
私の心の奥を覗き込もうとする、その眼差し。
何が言いたいの?
私を哀れだとでも言いたいの……?
胸がかっと熱くなる。
真っ直ぐな視線に捕らわれ、どくんと心臓が大きく脈を打った。
「……何ですか?」
無意識に強張る表情を隠すように、私は口元へ笑みを作った。
「……そうか、それもそうだね。
歩ちゃんのことも迷惑かけてごめん。
俺、亜紀さんの病棟へ戻すまで、責任を持って歩ちゃんを診るから」
予想外の返事だった。
「う……うん。
よろしくお願いします」
彼の素直な態度に肩透かしを食らったような気持ちになり、私もつられるように言葉を返した。
「亜紀さんは、もうすぐ帰れるの?」
「あと一つ病棟の指示出しが残ってるから、それが終わったら帰るつもり」
「そうなんだ。
俺ももうすぐ帰るんだけど、駅まで乗ってく?
何なら家まで送るよ。
ほら、雪道は危ない。転んじゃうかもしれないよ」
直江先生は窓の外を指差し、楽しそうに目を輝かせた。
転んじゃうかもって……
遼といい、私は子供じゃないってば。
思わず口元が緩む。
「結構です。
あなたに送ってもらったら、後々面倒なことになりかねないし」
「あー、そうだね。
怖いからねぇ、亜紀さんの旦那さん。
俺、喧嘩売っちゃったみたいだし」
直江先生は鼻の頭をかきながら、苦笑いを浮かべた。
さすが俳優並みの甘いマスク……
「あなたは、そうやって笑っていれば素直そうで可愛い男性なのに。
口が悪すぎるわ。下品だし」
私は彼を見つめ、柔らかな笑みを浮かべた。
「可愛い!? 俺が……? 亜紀さん、それ酷いよ」
「えっ、どうして? 可愛いは褒め言葉なんだけど」
「女性に可愛いなんて言われて、喜ぶ男がどこにいるのさ。バカにされてるとしか思えない」
直江先生は目を細め、口をへの字に曲げた。
「えっ、バカになんてしてない。ごめんね、そんなつもりじゃないの。本当に」
あらら、拗ねちゃって。
意外と、本当に可愛い……かも。
ふてくされた彼の表情を見て、小さく笑った。
「はぁ……夫婦揃って俺を小馬鹿にするわけね。
まあ、あの宮坂遼一の奥さんだからね。
亜紀さんにも、見た目の雰囲気に似合わずキツいこと言われるし」
大げさなくらい深いため息をつき、肩を落とす。
「だから、小馬鹿になんてしてないってば。
夫も、あなたのドクターとしての腕は認めてると思う。
できる人間か、そうじゃない人間か……あの人、そういうところは厳しい目で見るから。
一目置いてるからこそ、あなたのその軽いキャラが……何て言うのかしら、その……」
「目障りなんだろ?」
「まあ……そんな感じね」
軽く鼻で笑う直江先生を見つめ、私は遠慮がちに苦笑した。
「俺、昔から同性に嫌われるタイプなんだよね。
旦那さんくらい嫌悪感を剥き出しにしてくれると、かえって清々しいよ」
「清々しいって……嫌悪感が?」
ケラケラと笑い飛ばす彼を見て、私は首を傾げた。
「……ごめんなさい。
あの人、昔はあんなにピリピリした人じゃなかったのよ……」
私はあっけらかんとした直江先生から視線を外し、紺色の空から舞い降りる雪を見つめながら、小さく呟いた。
「ごめんなさい?
どうして亜紀さんが謝るの」
「何となく……」
自分が情けなく思えて……。
窓ガラスに映る直江先生を横目で見ながら、小さく笑って肩をすくめた。
「何となく?……変な亜紀さん。
ピリピリしてるのは旦那さんだけじゃないよ。みんな同じ。余裕がないのさ。
意外と医師の視野は狭いんだ。
地位に守られてきたせいで、精神年齢が大人になり切れていない奴も多い。
それでいて、背負う責任だけは途方もなく大きい。
自分の未熟さを、ライバルたちに悟られたくないのさ」
「……」
「外科医は腕がすべて。
どれだけ心優しくても、腕がなければ必要ないと判断される。
それを目の当たりにした時、人は周りを蹴落としてでもオペ経験を積み、のし上がろうとする。
仲間であっても、結局は出世を競うライバルなんだ。ピリピリして当然だよ」
直江先生は淡々と言い終えると、私の複雑そうな表情を見て、わざと爽やかに笑った。
「……私は遼のライバルなんかじゃない。
妻なのよ。
刃を向ける相手じゃないのに……」
気づけば、悲しみを滲ませた言葉が口から零れていた。
直江先生は少し驚いたように私を見つめる。
だが、すぐにその表情を和らげ、小さく微笑んだ。
「ただ、余裕がないんだよ。
男って、いつまで経ってもワガママだから。
…甘えてるんだ」
***
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コメント
1件
第96話、読み終えたよ。亜紀さんの「遼のライバルなんかじゃない。妻なのよ」って言葉がすごく刺さった……。旦那さんのピリピリした態度の裏にある「余裕のなさ」を直江先生が代弁してくれるシーン、じんわり来たな。甘えてるんだ、って言葉に全部集約されてる感じがする。夫婦のすれ違いと、それを優しく見透かす直江先生の距離感、めっちゃ良い塩梅だった🔥