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翌々日の午後、常盤リビング本社二階の打ち合わせスペースは、試作品と色見本で埋まっていた。
長机の中央には、マルチポーチの新柄候補が四案並んでいる。薄桃、紺、生成り、そして夜の青に近い紫。その上に、夢鈴が自分で刷ってきた仮のキャプション札が置かれていた。
「これです」
夢鈴は、舞台の上に立つ司会者みたいに胸を張った。
「春の新シリーズ、柄名の通称は『姫と夜桜』でいきます」
その場にいた全員の手が、半拍だけ止まった。
妃雛が最初に反応した。つやのある唇を少し開いて、ポーチを持ち上げる。
「かわいい。すごく映えますね。だったら売場も、もっと写真を撮りたくなる方向に寄せたほうがよくないですか? 背景に黒を使って、ライトを落として、ここに桜の花びらを散らして。で、モデルの手元を大きく見せて――」
「子どもの通学用品売場で、ライトを落とすんですか」
麗が間髪入れずに返した。
妃雛は一瞬だけ詰まったが、すぐに笑顔を立て直す。
「比喩です。雰囲気の話。要は、世界観を出したいんです」
「世界観を出す前に、親御さんが値段と使い方を一目で分かることが先です」
「でも見た目で足を止めてもらわないと始まらないでしょう?」
「足を止めたあとに迷わせたら、結局買われません」
言葉の往復が早い。しかも、どちらも間違ったことは言っていない。晴哉は二人の間に視線を滑らせながら、ここで片方に寄ると、もう片方が意地になる流れだと察した。
その時、優元が無言で机の端のサンプルを持ち上げた。妃雛が持ち込んだ、艶の強い生地で作った見本だった。照明の下では確かに目を引く。だが優元は、親指で布の表面をなぞるだけで結論を出した。
「量産で崩れます」
妃雛が眉を上げる。
「まだ何もしてませんけど」
「してます。ラミネートを強くかけすぎてる。角で白化しやすいし、縫い返しで表面が浮く。店頭で一週間吊ったら、端から疲れます」
静かな声なのに、言い切り方だけは頑固な職人そのものだった。妃雛は反論を飲み込めず、ポーチを持つ手に力を入れる。
「でも、今の案だと地味です。新生活の売場なのに、目立たなかったら意味がないじゃないですか」
「目立つだけで使いにくい物も、意味がありません」
また空気が張りつめる。
晴哉はわざと一歩前に出て、机の真ん中に置かれた四色の生地を順に見た。
「じゃあ、目立つか地味かじゃなくて、誰がどの距離で見るかで整理しません?」
全員の視線がこちらへ向く。
「遠目で足を止める役と、近くで触って安心する役を分けるんです。たとえば、売場全体のキービジュアルは夢鈴さん案で“姫と夜桜”の印象を出す。けど現物は優元さんが言う耐久を優先する。妃雛さんの写真映え案は、通販ページとか配布リーフの表紙で生かせるかもしれない」
知雅がすぐに乗ってくれた。
「それなら素材は二段階で考えられますね。売場什器の見せ方と、本体の量産仕様を分ける」
夢鈴も、机に身を乗り出す。
「じゃあ、売場上部に夜桜の帯を入れて、現物の近くは明るくするのは? 名前で引いて、情報で安心させる感じ」
麗はまだ腕を組んだままだったが、反対はしなかった。代わりに手元のメモ帳を開き、項目を整理し始める。
「決める順番を変えます。第一に量産可能な本体仕様。第二に売場の視認性。第三に写真素材の使用先。ここが混ざると、またやり直しになります」
妃雛は少し不満そうに唇を尖らせたが、晴哉が「その写真、たしかに見たいんですよね」と付け足すと、わずかに機嫌を持ち直した。
「……なら、撮る意味がある形にしてください」
「そこは全力で」
言うと、妃雛はようやく椅子に座り直した。
打ち合わせは予定より三十分伸びたが、机の上に散らばっていた案は、終わる頃にはそれぞれの置き場所を得ていた。優元は現場確認へ戻り、知雅は素材の候補表を作り直し、妃雛はぶつぶつ言いながら撮影ラフに書き込みを足している。夢鈴は自分の名付けた通称を気に入っているらしく、何度も口の中で転がしていた。
「姫と夜桜。いいですよねえ。ちょっと背筋が伸びる感じがして」
片づけながら晴哉が笑う。
「誰が姫なんですか」
「売場に来る子も、使うお母さんも、疲れて帰る会社員も、全員です」
夢鈴は真顔で言ったあと、すぐにいたずらっぽく目を細めた。
「……まあ、今日の会議室に限定するなら、ひとり、ぴんと来る人はいますけど」
その視線の先にいたのは、言うまでもなく麗だった。
麗は資料を揃える手を止めず、「聞こえています」とだけ返す。けれど耳のあたりがほんの少しだけ赤い。晴哉は見なかったふりをして、自分のファイルを閉じた。
夕方、夢鈴は取引先へ見せる仮ビジュアルの確認のため、社外で撮った桜写真のデータを麗に見せると言い出した。広報室で済む話かと思ったら、「実際の色は外で見たほうが早いので」と、半ば強引に連れ出してしまう。晴哉はその場にいなかったが、麗は断る隙を失って、そのまま本社裏手の川沿いまで歩くことになった。
日が落ちきる前の空は、水色と灰色の境目で揺れていた。川沿いの遊歩道には、街灯の明かりが細く落ち、桜の枝が風にふれるたび、かさり、と乾いた音がした。満開は少し過ぎている。それでも花は十分に残っていて、薄い花びらが夜の気配の中でかえって白く浮かんで見える。
夢鈴は昼間の勢いが嘘みたいに静かだった。カメラを首から下げ、立ち止まっては空を見上げる。
「昼の会議だと、何でも戦いみたいになりますね」
「あなたが一番あおっていましたけど」
「必要経費です」
けろりと言ってから、夢鈴は桜越しの街灯にレンズを向けた。
「でも、夜の色って、画面の中だけでは分からないんです。暗いのに、暗すぎると不安になる。明るいのに、明るすぎると安っぽくなる。子どもの持ち物って、そのちょうど真ん中くらいが難しい」
麗は少しだけ意外に思った。夢鈴は勢いで押し切る人に見えるのに、見ているところは案外細かい。
「……そこは、分かります」
「でしょう?」
夢鈴は得意そうに笑い、それから不意に声をやわらげた。
「好きな人と歩幅が合うと、桜はきれいに見えるらしいですよ」
麗は立ち止まった。
「何ですか、それ」
「恋のおまじないです」
「根拠は」
「ありません。でも、根拠がないからいいんです」
夢鈴はそう言って、ひらひら落ちてきた花びらを手のひらで受けた。
「隣の人に合わせて無理に急いだり、逆に置いていかないように遅くしすぎたりすると、景色ってあんまり入ってこないんです。同じ速さで歩けた時だけ、急に、あ、きれいだなって思うことがある」
麗は呆れたように息をついた。
「広報というより占い師ですね」
「よく言われます」
笑いながらも、夢鈴はそれ以上からかわなかった。
川面に映る街灯を見つめているうちに、麗の頭には、昼間の会議室の光景が不意によみがえった。優元の言葉で空気が固まった瞬間、晴哉は誰かの顔色をうかがうのではなく、机の上の案を一つずつ見ていた。誰を立てるかではなく、どうすれば全部を前へ進められるかを考えている顔だった。
あの人は、笑ってごまかす人なのだと思っていた。
けれど、あの表情はごまかしではなかった。
「どうしました?」
夢鈴にのぞき込まれ、麗は小さく首を振った。
「何でもありません」
そう答えたものの、胸の内ではさっきの言葉が引っかかっていた。
好きな人と歩幅が合うと、桜はきれいに見える。
ばかばかしい。根拠もない。
そのはずなのに、夜風の中で思い出した晴哉の横顔だけは、やけにくっきりしていた。
本社へ戻った頃には、時計の針は二十時を回っていた。夢鈴は広報室へ直行し、麗は三階の自席に置いた資料を取りに向かった。廊下は静かで、複合機の低い音だけが遠くから聞こえる。
同じ頃、晴哉は一階の倉庫で売場用の旧什器を探していた。夢鈴から「昔の春販促で使った箱什器の写真が欲しい」と連絡が入り、在庫棚を確認しに来たのだ。蛍光灯が一本だけついた倉庫には、季節ごとの段ボールと見本品がびっしり積まれている。紙とインクと、少し湿った木材の匂いが混じっていた。
棚の奥で、背の低い段ボール箱がひとつ、半分だけ飛び出しているのが目に入った。表面には古い油性ペンで「外注見本」「留め具小物」と書かれている。端が少しへこんでいて、長いあいだ触られていなかったのが分かった。
晴哉は手を伸ばしかけて、指を止めた。
その箱に書かれた文字の癖が、どこか見覚えのあるものに見えたからだ。
胸の奥が、かすかにざわつく。
倉庫の静けさの中で、晴哉はゆっくりと箱を引き寄せた。
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