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倉庫の蛍光灯は、古い紙箱の角だけを白く浮かび上がらせていた。
晴哉は段ボール箱を棚から引き出し、床にそっと下ろした。ふたの合わせ目に指を差し入れると、長く乾いた紙がこすれる音がする。中には、布見本の切れ端、黄ばんだクリアファイル、細いゴム紐の束、それから角の丸い小さな冊子のラフが重なっていた。
一番上の紙をめくった瞬間、晴哉の手が止まった。
見慣れた字だった。
細くて、ところどころだけ強くはねる筆圧。買い物のメモにも、店の値札にも、昔は家の冷蔵庫の横にも、その字があった。母の字だと分かるまでに、時間はかからなかった。
紙の端にはこう書かれている。
「片手で閉じられること」
「暗い道で握りやすいこと」
「親が子どもに説明しやすいこと」
晴哉はその三行を、声に出さずに二度読んだ。いま自分たちが立て直している三つの品に、そのまま通じている。スナップボタン付きの小物、防犯ブザー、そして親子向けの小冊子。十年以上前の紙の上に、今週ずっと会議室で交わされてきた言葉の根が、もう書かれていた。
箱の底には、簡単な線画で描かれた小物の図が何枚も入っていた。丸みのある留め具。指先の小さな子でも押しやすいように、力の入る位置に印がついている。横には「急いでいる時ほど、説明はいらない形に」「親が持たせる時に不安にならないこと」と走り書きがある。
晴哉はしゃがみこんだまま、しばらく動けなかった。
母は、晴哉が高校生の頃に亡くなった。漬物店を手伝いながら、内職のように小物の設計補助もしていたのは知っていたが、こうして会社の倉庫に、まだ紙が残っているとは思わなかった。もうどこにもないと思っていた声が、段ボール箱の底から、いきなりこちらを向いた気がした。
「……何してるんですか」
背後から声がして、晴哉は肩を揺らした。
振り向くと、倉庫の入口に麗が立っていた。三階で資料を取りに行った帰りらしく、腕には図鑑の校正紙を抱えている。倉庫の冷えた空気の中でも、息は乱れていなかった。けれど、箱の前で固まっている晴哉を見る目は、いつもの事務的なものではなかった。
「什器を探してたんですけど、別のもの見つけて……」
自分でも驚くほど、声が低かった。
麗は近づいてきて、箱の中をのぞいた。紙に落ちた影が少し揺れる。彼女は手を出す前に、「見てもいいですか」と小さく確認した。晴哉がうなずくと、麗は一枚だけ、慎重にラフを持ち上げた。
「これは……小冊子の下書きですか」
「たぶん。うちの母が前に関わってたものだと思います」
麗の視線が紙から晴哉へ移る。何かを言いかけて、やめる。代わりにもう一枚、走り書きの多い紙を見つけて、静かに読み始めた。
「『親が先に全部説明しなくていいように、子どもが自分でめくって、聞きたくなる順番にする』……」
麗の指先が、その一文のところで止まった。
「これ、今の図鑑に一番足りないところかもしれません」
晴哉は顔を上げた。
「足りないところ」
「今の誌面は、正しいことを上から順に並べすぎています。読む人に渡すというより、作る側が言いたいことを整理した形に近いです。でも、このメモは逆です。親子が並んで見た時に、どこから話し始められるかを考えてる」
麗はいつもみたいに速く話さなかった。言葉を一つずつ置くように言う。
「知識を詰める冊子じゃなくて、会話のきっかけになる冊子にしたほうがいい。たとえば、“夜道でこわい時はどうする?”から始める。そこに防犯ブザーをつなげる。荷物が多い時はポーチの開け閉めも関係する。親が説明するための図鑑じゃなくて、親子が一緒に声をかけ合うための図鑑にするんです」
その言葉が、倉庫の中でまっすぐ形になっていくのが分かった。
晴哉は母のメモを見下ろした。今まで別々の問題として追いかけていた三つの品が、ようやく一本の線でつながった気がした。売場のための帳尻合わせではなく、誰かの朝や帰り道にちゃんと届く形にする。その線なら、まだ巻き返せるかもしれない。
「……明日の朝、みんなに見せましょうか」
「見せましょう」
麗は迷わず言った。
翌朝の打ち合わせは、いつもより少し空気が違った。知雅がラフを拡大コピーし、夢鈴は「これ、むしろ今っぽいです」と身を乗り出し、優元は設計メモのボタン位置を見て「理屈が通ってる」と短くうなずいた。妃雛でさえ、「写真で見せるなら、親子の手元があったほうがいいかも」と言い出した。
麗はホワイトボードの前に立ち、図鑑の構成を一から並べ替えていく。
「一ページ目は注意事項一覧ではなく、親子で話す導入にします。二ページ目で防犯ブザーの持ち方。三ページ目でポーチの使い方。情報を置く順番じゃなくて、生活の流れの順番で組みます」
夢鈴がすぐにメモを取り、知雅はボタン形状の試作図を修正し、優元は量産で可能な範囲を口にする。晴哉は取引先への説明文を書き換えながら、何度もホワイトボードを見た。昨日まで、遅れをどう埋めるかでいっぱいだった会議が、今日は何を届けるかの話になっている。
休憩に立った廊下で、晴哉は自販機の前にいた麗に缶の温かいお茶を差し出した。
「ありがとうございます」
受け取った麗は、缶の熱を指先で確かめるように少しだけ持ち直した。
「さっきの、助かりました。あのまま時間の話だけしていたら、また同じところに戻っていたので」
「いや、提案したのは麗さんですよ。俺、見つけて固まってただけでしたし」
「見つけて、持ってきてくれたからです」
短い言葉だったのに、妙に胸に残った。
晴哉は自販機の横の窓にもたれ、少し迷ってから口を開く。
「母、こういうこと考えるの好きだったんです。誰が使うか分からないまま作るの、嫌がる人で。漬物のパックも、年配の人が開けやすいように切り込みの位置を変えたりしてて」
そこまで話して、喉が少しつかえた。
「だから、その……もうだいぶ前なのに、字を見たら急に、昨日まで家にいたみたいで」
麗は急かさなかった。励ます言葉も挟まない。ただ、缶を両手で持ったまま、晴哉の言葉が終わるところまで静かに待っていた。
廊下の向こうでコピー機が鳴る。誰かの笑い声が遠くでほどける。会社はいつも通り動いているのに、その一角だけ、少しだけ時間がゆるんだ。
「……ちゃんと残ってたんですね」
麗がようやくそう言った。
「お母さんの考えてたこと」
晴哉は、返事の代わりに小さく笑った。
「そうかもしれません」
麗はそれ以上、きれいなことを言わなかった。ただ、校正紙の束を抱え直して、いつもの落ち着いた声で言う。
「なら、今の図鑑にも残しましょう。読む親子に届く形で」
その言い方が、何より自然だった。
晴哉はうなずいた。胸の奥のざわつきが、ようやく静かに沈んでいく。誰かの遺したものを、思い出としてしまい込むだけじゃなく、今日の仕事へつなげていいのだと、初めて許された気がした。
昼前、夢鈴から「午後の打ち合わせ、ちょっと面白いもの持っていきます」と社内チャットが届いた。文の最後に、音符の絵文字がひとつ付いている。
麗が画面を見て眉をひそめ、晴哉は思わず吹き出した。
「また何か始まりますね」
「たぶん、静かな話では済みません」
そう言い合っただけで、昨日までより少しだけ呼吸が合っていた。
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