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星キラリ

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ruruha
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榎本くもり
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朝、教室に入った瞬間、花は自分の机を見た。
昨日と同じ場所にある。椅子も机も、見たところ変わった様子はない。
それなのに、近づくのが嫌だった。
「おはよう」
花は小さく言った。
返事はなかった。
教室の前のほうでは、女子が三人集まって話していた。花が入ってきたことに気づいていないわけではないことはわかった。ひとりがこちらを見て、隣の子の肩を指でつついたからだ。
「あ、来た」
「ほんまや」
声を潜めたつもりなのだろう。けれど、花には聞こえた。
聞こえなかったふりをして、自分の席へ向かう。
机の上に置かれた教科書を開くと、ページの端が折られていた。何か書かれている。
花は周囲を確認してから、折られた部分を開いた。
――学校来なくていいよ。
黒いペンで、短く書かれていた。
文字は乱暴で、最後の丸だけが妙に大きかった。
花はしばらくそれを見つめた。
昨日も、似たようなことがあった。先週も、その前も。
最初は、誰かのいたずらだと思おうとした。自分が何か気に障ることをしたのかもしれない。知らないうちに嫌な思いをさせたのかもしれない。
理由が分かれば、直せると思っていた。
けれど、何を直せばいいのか分からなかった。
声をかければ、うっとうしそうな顔をされる。話しかけなければ、感じが悪いと言われる。笑えば気持ち悪いと笑われ、黙っていれば暗いと笑われた。
どれを選んでも、結果は変わらなかった。
花は教科書を閉じ、何も書かれていないページを開いた。折り目のついたページは、そのままにしておいた。
塗りつぶそうとすれば、誰かに見られるかもしれない。
捨てれば、捨てたことを理由に何か言われるかもしれない。
そんなことまで考えている自分が、嫌だった。
「花」
名前を呼ばれた。
振り返ると、クラスメイトの女子が立っていた。花は反射的に背筋を伸ばした。
「これ、落ちてたで」
差し出されたのは、花の筆箱だった。
昨日、隠されていたものだ。
「あ……ありがとう」
「別にええよ」
女子は筆箱を花の手に渡すと、すぐに友達のところへ戻っていった。
花は筆箱を開いた。
中には、短く折られた鉛筆が入っていた。昨日、折られたものだ。ほかの文房具も、少しずつ使えなくなっている。
返してくれたことに意味があったのか、それとも、ただ面白がっているだけなのか。
考えても分からなかった。
花は筆箱を閉じた。
ありがとうと言った声が、少し大きすぎた気がした。
もっと普通に言えばよかったのだろうか。嬉しそうにしたから、また何かされるのだろうか。逆に、そっけなくしたほうがよかったのだろうか。
頭の中で、さっきの数秒を何度も再生する。
相手の表情。声の調子。筆箱を渡すときの手つき。
どこかに、間違いの理由があったのではないか。
チャイムが鳴った。
花は慌てて教科書を取り出した。
午前中の授業で、花は一度だけ先生に当てられた。
「じゃあ、ここの続きを読んでくれるか」
先生に指名され、花は立ち上がった。
教科書を持つ手が少し震えた。
声を出す。文章を読む。それだけのことなのに、教室にいる全員が自分を見ているような気がした。
読み始めると、後ろのほうで小さな笑い声がした。
花は一瞬、言葉に詰まった。
「どうしたんや?」
先生が聞いた。
「……いえ」
「続けてええで」
花は続きを読んだ。
また笑い声がした。
今度は、誰かが机に顔を伏せていた。隣の生徒がその背中を叩いている。
先生はそちらを見なかった。
花は最後まで読み終えた。
「はい、ありがとう。座ってええで」
席に戻ると、すぐ後ろから声がした。
「声、震えてへんかった?」
「緊張しすぎちゃう?」
「そんなことで緊張するとか、逆にすごいやん」
笑いが起きた。
花は椅子を引き、座った。
先生は黒板に向かって説明を続けていた。
誰も止めなかった。
花はノートを開いた。黒板の文字を書き写そうとしたが、さっき読んだ文章の最後の一行が頭から離れなかった。
間違えずに読めたはずだった。
つっかえたのは、一度だけだ。
それでも笑われた。
なら、次はもっと上手に読めばいいのだろうか。
声が震えないように。間違えないように。誰にも笑われないように。
花はノートに文字を書き続けた。
自分が何を覚えようとしているのか、もうよく分からなかった。
昼休み、花は教室に残っていた。
以前は、図書室へ行くこともあった。けれど、そこへ行く途中で呼び止められたり、後ろからついてこられたりするようになってから、あまり教室を出なくなった。
どこへ行っても、見つかる。
見つかれば、何か言われる。
だったら最初から動かないほうがいい。
そう考えるようになった。
弁当箱を机の上に置く。
蓋を開けると、卵焼きと小さな唐揚げ、それから隙間を埋めるように詰められたブロッコリーが入っていた。
祖父が作ったものだった。
朝、花が起きるより早く台所に立ち、何も言わずに弁当を用意してくれる。
祖父は料理が得意なわけではない。卵焼きは少し焦げていることがあるし、唐揚げの大きさも毎回違う。それでも、花が苦手なものを避け、食べられるものを考えて詰めてくれているのは分かっていた。
花は箸を持った。
卵焼きをひとつ口に入れる。
甘かった。
いつもと同じ味だった。
その味を感じた途端、喉の奥が詰まった。
家に帰れば、祖父がいる。
学校で何があったか知らない祖父が、いつもと同じ顔で夕飯を作り、花の帰りを待っている。
朝になれば、また弁当を持たせてくれる。
祖父は何も悪くない。
花が学校で嫌われていることも、教室に居場所がないことも、祖父には関係がない。
それなのに、祖父が作ってくれた弁当を食べるたび、申し訳なくなった。
こんなふうに学校へ通っている自分が情けなかった。
普通に友達を作って、普通に話して、普通に笑って帰ってくる。
それだけのことができない。
祖父は、花が学校でどんな顔をしているのか知らない。
知らないままでいてほしかった。
「ねえ、それ食べへんの?」
声がして、花は顔を上げた。
いつの間にか、机のそばに二人の女子が立っていた。
「……食べてるよ」
「全然減ってへんやん」
「お腹すいてへんの?」
「……うん」
「へえ。せっかく作ってもろたのに?」
花の手が止まった。
どうして知っているのだろう。弁当を誰が作っているのか、話したことがあっただろうか。
女子のひとりが弁当箱を覗き込んだ。
「これ、おじいちゃんが作ったん?」
花は答えられなかった。
「そうなんや。大変やねえ」
声は優しかった。
だからこそ、花には何を言えばいいのか分からなかった。
「……うん」
「何が大変なん?」
「え?」
「大変って言うただけで、なんでそんな顔するん?」
もうひとりが笑った。
「被害者みたいな顔するん、得意やんな」
「してない……」
「してるやん」
「ごめん」
口にした瞬間、二人の顔が変わった。
「え、何が?」
「いや、だから……」
「何もしてへんのに謝られるん、めっちゃ嫌なんやけど」
花は唇を閉じた。
謝らなければよかった。
でも、謝らなかったら、もっと何か言われたのかもしれない。
「もうええよ。食べなよ、お弁当」
二人は笑いながら離れていった。
花は弁当箱を見下ろした。
卵焼きの端が、箸で押されたせいで少し崩れていた。
もう一口食べようとした。
けれど、箸を持つ指に力が入らなかった。
祖父が朝、台所でこれを作っている姿を想像した。
焦げた卵焼きを作り直そうか迷っている姿。弁当箱の隙間を見て、何かもう一品入れようとしている姿。
花は蓋を閉じた。
食べられなかったことを、祖父に知られたくなかった。
だから、帰るまでに食べようと思った。
放課後になれば、教室には人が少なくなる。誰も見ていないところで、残りを食べればいい。
そう決めて、弁当箱を鞄にしまった。
放課後、花は教室に残った。
掃除当番が終わり、部活動へ向かう生徒たちの声が廊下から聞こえてくる。少しずつ教室が静かになっていく。
花は鞄から弁当箱を取り出した。
蓋を開ける。
冷めた卵焼きと、唐揚げと、ブロッコリー。
朝と同じものなのに、昼休みとは違って見えた。
花は唐揚げをひとつ口に入れた。
噛んだ。
飲み込もうとした。
けれど、喉が受けつけなかった。
水筒の水を飲んで、無理に飲み込む。
もうひとつ。
今度は卵焼きを口に入れた。
甘さが舌に広がったところで、昼休みの声が蘇った。
――せっかく作ってもろたのに?
花は箸を置いた。
食べなければ、祖父が悲しむかもしれない。
食べようとしても、食べられない。
こんなことで困っている自分が嫌だった。
弁当箱を閉じ、鞄にしまった。
残りは家に帰ってから、食べたことにしよう。
そう思った。
けれど、家で祖父に「お弁当どうやった」と聞かれたら、きっと「おいしかった」と答えるのだろう。
嘘をつくことになる。
それでも、本当のことは言えなかった。
祖父が困った顔をするのを見たくなかった。
自分のために何かをしてくれる人に、自分がどれほど駄目になっているのか知られたくなかった。
花は鞄を持って立ち上がった。
教室の戸口まで来たとき、机の上に置き忘れた消しゴムに気づいた。
戻って手に取る。
たったそれだけのことなのに、誰かに見られているような気がして、廊下を確認してしまった。
誰もいなかった。
花は消しゴムを握りしめた。
誰もいない。
誰も見ていない。
それなのに、体はずっと、誰かに何かをされるのを待っていた。
家に帰ると、祖父は台所にいた。
「おかえり」
「……ただいま」
「遅かったな」
「ちょっと、残ってた」
「そうか」
祖父はそれ以上聞かなかった。
花は鞄を置き、洗面所で手を洗った。鏡に映った顔を見て、少しだけ頬を持ち上げてみる。
笑っているように見えるだろうか。
すぐにやめた。
自分の顔が、知らない人のものみたいだった。
「花」
台所から祖父の声がした。
「ご飯、もうちょっとしたらできるで」
「うん」
「弁当箱、出しといてくれ」
「……分かった」
花は鞄から弁当箱を取り出した。
蓋を開けて、残っているおかずを見た。
祖父に見せたくなかった。
けれど、隠したままにしておくわけにもいかない。
花は弁当箱を閉じ、台所へ持っていった。
「ごめん」
祖父は弁当箱を受け取る手を止めた。
「何がや」
「……お弁当、残しちゃった」
祖父は蓋を開け、中を見た。
しばらく何も言わなかった。
花は俯いた。
怒られると思ったわけではない。祖父がそんなことで怒る人ではないと知っていた。
それでも、何か言われるのが怖かった。
「腹、減ってへんかったんか」
「……うん」
「そうか」
祖父は弁当箱を流し台に置いた。
「明日は少なめにしよか」
花は顔を上げた。
「え……」
「食べられる分でええやろ」
祖父はそう言って、また夕飯の支度に戻った。
責められなかった。
理由を聞かれることもなかった。
花は、どうしていいのか分からなかった。
もっと怒られたほうが、楽だったのかもしれない。
自分が悪いのだと決まれば、謝ればいい。次から気をつけると言えばいい。
でも、祖父は何も責めなかった。
花が食べられなかったことを、そのまま受け入れた。
それが苦しかった。
「……おじいちゃん」
「ん?」
「私、ちゃんとできてる?」
祖父は振り返った。
花は自分が何を聞いたのか、すぐに後悔した。
学校のことを話したわけではない。いじめのことも、教室で何を言われたのかも話していない。
ただ、何かを聞いてしまった。
祖父は少し考えてから答えた。
「何をや?」
花は口を開いた。
学校に行くこと。
笑われても泣かないこと。
何を言われても、できるだけ普通にしていること。
家では心配をかけないこと。
弁当を残さないこと。
祖父に嘘をつかないこと。
どれも言葉にできなかった。
「……何でもない」
花は笑おうとした。
「ごめん。変なこと聞いてもうた」
祖父は何か言いかけたようだった。
けれど、花はそれ以上待たず、自分の部屋へ戻った。
扉を閉め、鞄を床に置く。
制服のまま、ベッドの端に座った。
祖父は、花が何に困っているのか知らない。
知らないから、優しくできるのかもしれない。
もし知ったら、どうなるのだろう。
学校へ行くなと言うだろうか。
先生に相談するだろうか。
自分の代わりに怒ってくれるだろうか。
そんなことを考えたあと、花は首を横に振った。
祖父に何かをしてほしいわけではなかった。
ただ、学校であったことを話したら、今までの生活が変わってしまう気がした。
朝、弁当を作ってくれる祖父。
夕方、帰りを待ってくれる祖父。
食卓に並ぶ、少し焦げた卵焼き。
そういうものまで、自分のせいで変わってしまう気がした。
花は制服の袖を握った。
明日も学校がある。
明後日も、その次の日も。
自分が行かなければならない場所が、当たり前のように用意されている。
行けば、何かを言われる。
行かなければ、どうして来ないのかと言われる。
休んだところで、次に行けば同じことが待っている。
逃げる場所がなかった。
花はベッドに横になった。
目を閉じると、教科書に書かれた文字が浮かんだ。
――学校来なくていいよ。
その言葉は、花がいないほうがいいという意味なのだと思った。
教室にいないほうがいい。
話さないほうがいい。
笑わないほうがいい。
誰にも迷惑をかけないように、できるだけ小さくなっていたほうがいい。
いつから、こんなふうに考えるようになったのだろう。
花には分からなかった。
ただ、明日もまた、教室の扉を開けなければならない。
花は布団を頭までかぶった。
声が漏れないように、口元を押さえた。
泣いていることを知られたくなかった。
家の中でまで、誰かに見られているような気がしていた。
コメント
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うわ……読んでて胸がぎゅーってなった……。 花が教室で誰かの視線を感じながら、ちょっとした動作のひとつひとつにびくびくしてるのが痛いほど伝わってきた。 「何を直せばいいのか分からない」ってとこ、一番つらいよな。自分を消したくなる気持ち、すごく伝わってきた。 祖父が責めずに受け入れてくれたのが、逆に苦しいんだよな……。続き、花がどうなっていくのか気になる。