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星キラリ

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ruruha
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榎本くもり
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朝、花は家を出る前に、玄関で靴を履いたまま動けなくなった。
鞄は持っている。教科書も入っている。宿題も終わらせた。制服の襟も整えた。
忘れ物はない。
それなのに、外へ出るのが嫌だった。
「花、行かへんのか」
居間から祖父の声がした。
「……行く」
「そうか」
祖父はそれ以上、何も聞かなかった。
花は玄関の扉を開けた。
朝の空気は冷たく、道路には通学する生徒たちの姿があった。少し先を歩く制服姿の集団を見て、花は足を止める。
同じ学校の生徒だった。
追いつかないように、少し待った。
別の道を通ることも考えたけれど、遠回りをするほどの理由を自分に説明できなかった。結局、花はいつもの道を歩き始めた。
学校に近づくにつれて、同じ制服が増えていく。
笑い声が聞こえる。
誰かが昨日のテレビの話をしている。誰かが宿題を見せ合っている。友達同士で肩をぶつけたり、ふざけて追いかけたりしている。
花はその横を通り過ぎた。
自分も、以前はあんなふうに学校へ来ていたのだろうか。
友達と呼べる相手がいた頃のことを思い出そうとしたが、うまくいかなかった。
いつから話しかけられなくなったのか。
いつから自分から声をかけることが怖くなったのか。
はっきりした境目はなかった。
気づいたときには、誰かの輪に入ろうとするだけで、胸の奥が苦しくなっていた。
教室に入ると、窓際の席で男子が笑っていた。
「昨日のあれ、ほんまおもろかったわ」
「今日もやろうや」
「もうええって。先生にバレたら面倒やし」
花は自分の席へ向かった。
昨日の教科書は、何事もなかったように机の中に入っていた。折られたページを開くと、あの文字がまだ残っている。
――学校来なくていいよ。
花は教科書を閉じた。
そのとき、後ろから声がした。
「なあ、花」
呼ばれた。
花は肩を揺らして振り返った。
「……何?」
「今日、なんか静かやな」
相手は笑っていた。
花は返事を探した。
昨日も静かだった。今日だけのことではない。けれど、それを言えば、昨日の自分まで見られているような気がした。
「……いつもやけど」
「え、何? 今なんて?」
「……何でもない」
「聞こえへんわ。ちゃんと喋ってや」
周囲の何人かがこちらを見た。
花は喉に力を入れた。
「何でもない」
「なんやねん、それ」
相手は笑いながら前を向いた。
花も前を向いた。
会話は終わったはずだった。
それなのに、心臓の音がしばらく大きく聞こえていた。
呼ばれたとき、少しだけ期待した自分がいた。
何か用事があるのかもしれない。普通に話しかけてくれたのかもしれない。
そんなふうに考えた自分が、恥ずかしかった。
相手にとっては、ただの暇つぶしだったのだろう。
花は机の中からノートを取り出した。
次に名前を呼ばれても、期待しないようにしようと思った。
けれど、名前を呼ばれること自体が怖くなっているのに、どうやって期待だけをなくせばいいのか分からなかった。
午前の休み時間、花はトイレへ向かった。
教室にいるより、少しだけ気が楽だった。
廊下を歩いていると、後ろから女子の声が聞こえた。
「花ってさ、なんでいつもひとりなん?」
「知らん」
「友達おらんのかな」
「おらんからひとりなんちゃう?」
笑い声が重なった。
花は歩く速度を変えなかった。
聞こえていないふりをする。
振り返らない。
立ち止まらない。
それだけのことを、必死に守った。
「聞こえてるんちゃう?」
「聞こえてても、何も言われへんやろ」
また笑い声がした。
花は廊下の角を曲がった。
そこでようやく、息を吐いた。
誰も追いかけてこなかった。
それなのに、背中に視線が残っているような気がした。
トイレの鏡に映った自分の顔は、思ったより普通だった。
泣いていない。
怒ってもいない。
ただ、少し疲れているだけに見えた。
これなら、誰にも気づかれないかもしれない。
花は手を洗い、鏡から目をそらした。
教室へ戻る途中、廊下の掲示板に貼られた文化祭の案内が目に入った。
クラスごとに出し物を決めるらしい。色とりどりの紙に、楽しそうな文字が並んでいた。
花のクラスの欄には、まだ何も書かれていなかった。
きっと、教室ではもう話が進んでいるのだろう。
自分がいないところで。
花は掲示板の前を通り過ぎた。
昼前のホームルームで、先生が文化祭について話し始めた。
「そろそろ出し物を決めたいと思う。何か案がある人は、遠慮せずに言ってくれ」
教室のあちこちから声が上がった。
「お化け屋敷がええんちゃう?」
「去年もやってたやん」
「ほな、喫茶店は?」
「準備だるそう」
「劇とかどう?」
花はノートを開いたまま、周囲の声を聞いていた。
文化祭。
去年は何をしたのだったか。
思い出そうとしたが、文化祭の内容よりも、誰と一緒にいたのかを考えてしまった。
そのとき、先生が花のほうを見た。
「花は何かやりたいことあるか?」
教室が少し静かになった。
花は顔を上げた。
みんなが自分を見ている。
何か言わなければならない。
でも、何を言えばいいのか分からなかった。
「……特に、ないです」
「そうか。何か思いついたら言ってくれな」
「……はい」
先生はすぐに別の生徒へ話を振った。
「ほな、ほかに案がある人は?」
「やっぱお化け屋敷がええって!」
「さっきも言うたやん」
教室に笑い声が戻った。
花はノートに目を落とした。
何か言えばよかったのだろうか。
先生は遠慮せずにと言った。だから、聞いてくれたのだと思う。
けれど、花が何かを提案したところで、誰が一緒に準備をするのだろう。
誰が自分の意見を聞いてくれるのだろう。
もし自分の案が採用されたら、面倒なことにならないだろうか。
そんなことばかり考えてしまった。
最初から何も言わなければ、何も起きない。
誰にも反対されない。
笑われることもない。
花はノートの端に、小さな点をひとつ打った。
それが、今日自分が教室で残したもののように思えた。
放課後、文化祭の話し合いが続いていた。
花は先生に頼まれたプリントを職員室へ届けるため、教室を出た。
戻ってくると、黒板には大きな文字で「お化け屋敷」と書かれていた。
「それでええやん。決まりで」
「まだ決まってへんって」
「ほな、反対の人おる?」
教室のあちこちで、賛成の声が上がった。
花は自分の席へ戻った。
話し合いに参加していなかったことを、誰も気にしていないようだった。
それでよかった。
自分がいなくても、何も困らない。
何かを決めるときに呼ばれなくても、作業をするときに声をかけられなくても、クラスは普通に進んでいく。
花がいないほうが、話は早いのかもしれない。
「花、これ運んどいて」
突然、机の上に段ボール箱が置かれた。
花は顔を上げた。
「……どこに?」
「廊下の倉庫。使うかもしれんから」
「……分かった」
「あと、これも頼むわ」
別の箱が重ねられた。
花は立ち上がり、二つの箱を抱えた。
少し重かったが、持てないほどではない。
頼まれたのだから、やればいい。
そう思って教室を出た。
廊下の倉庫まで運び、箱を置く。
戻ってくると、教室ではすでに別の話が始まっていた。
「飾り、どうする?」
「黒い布とか買う?」
「予算、足りるんかな」
花は自分の席に座った。
誰も、箱を運んだことについて何も言わなかった。
お礼を言ってほしかったわけではない。
ただ、自分がいま何をしたのか、誰かに気づいてほしかったのかもしれない。
そう思った自分を、花はすぐに否定した。
頼まれたことをしただけだ。
褒められるようなことではない。
感謝されるようなことでもない。
それなのに、胸の奥が重かった。
教室の中では、みんなが楽しそうに話している。
花はその輪の外側に座っていた。
同じ教室にいる。
同じ制服を着ている。
同じ文化祭に向かっている。
それでも、自分だけが違う場所にいるような気がした。
帰宅すると、祖父が玄関まで出てきた。
「おかえり」
「……ただいま」
「今日は早かったな」
「うん」
「学校、どないやった?」
花は鞄の持ち手を握り直した。
いつもなら、ここで「普通」と答える。
何もなかったことにする。
今日も、それで終わるはずだった。
「……別に」
祖父は花の顔を見た。
「そうか」
それだけだった。
花は靴を脱ぎ、家に上がった。
自分の部屋へ行こうとしたとき、台所から祖父の声が聞こえた。
「手ぇ洗ってからにしぃや。もうすぐ飯やで」
「……うん」
花は洗面所へ向かった。
蛇口から水が流れる。
手を洗いながら、教室の光景が浮かんだ。
笑い声。
文化祭の話し合い。
段ボール箱。
先生の声。
誰もが、自分の居場所を当たり前のように持っていた。
花だけが、どこにいればいいのか分からなかった。
家には祖父がいる。
帰る場所はある。
それは分かっている。
けれど、明日になれば、また学校へ行かなければならない。
家に帰れることと、学校に居場所があることは、花の中では別の話だった。
花は手を止めた。
鏡の中の自分を見た。
ここにいる。
確かに、自分はここにいる。
でも、誰かにいてほしいと思われているのだろうか。
その答えを考えようとすると、胸が苦しくなった。
花は蛇口を閉めた。
明日も、いつもと同じように教室へ行く。
誰にも迷惑をかけないように。
何も言われないように。
できるだけ目立たないように。
そうすれば、少なくとも、自分がいることで誰かを不快にさせずに済むかもしれない。
花は濡れた手を拭き、台所へ向かった。
祖父が食卓に箸を並べていた。
「もうできるで」
「……うん」
花は自分の席に座った。
祖父が向かいに座る。
いつもと同じ食卓だった。
けれど花は、明日の朝が来ることを考えていた。
また一日が始まる。
誰も、自分が教室にいることを望んでいないような場所で。
それでも、行かなければならなかった。
コメント
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読了しました。教室の中にいながら「輪の外側」にいる感覚、すごく丁寧に描かれていて苦しくなりました。特に「呼ばれたとき少しだけ期待した自分がいた」という一文が胸に刺さります。期待すると傷つくから期待するなと自分に言い聞かせるのに、呼ばれた瞬間にほのかに期待してしまう――そのループがつらすぎる。祖父の「そうか」という最小限の返しも、余計な干渉をしない優しさと寂しさが同居していて、花の置かれた状況をより際立たせていました。続きが気になります。