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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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その夜、月椿堂の二階には雨の音がしていた。
昼間は晴れていたのに、日が落ちるころから急に降り出したらしい。窓ガラスを細かく打つ雨粒の音が、妙に落ち着かない。
クリストルンは夕食のあと、逃げずに居間へ座った。
向かいにはモンジェがいる。湯のみから立つ湯気の向こうで、父の顔はいつもより少し老けて見えた。
「今日、ディトさんから聞いた」
「……何をだ」
「止めたのに、責任を負わされた人がいたって」
モンジェの目が閉じる。
「お父さんだよね」
問いではなく、確認だった。
沈黙が長く続いた。
やがてモンジェは、肩の力を抜いたようにうなだれる。
「ああ」
たった一文字だった。
けれど、それで十分だった。
クリストルンは胸の前で手を組む。
「どうして言わなかったの」
「言ったところで、どうなる」
「私が知れる」
「それでおまえの子ども時代が変わるか?」
「変わるよ」
強く返した声に、自分でも驚いた。
「知らないまま守られてたって、あとで知ったら、ずっと寂しい」
モンジェは苦く笑った。
「寂しい、か」
「うん」
「俺は普通に育てたかったんだよ」
雨音の合間に、その言葉だけがまっすぐ落ちた。
「元社員の娘だとか、切り捨てられた職人の子だとか、そういうものを背負わせたくなかった。夕飯の味と、学校のテストと、友達の話で育てたかった」
「……でも、お父さんは一人で背負ってた」
「親だからな」
豪快に言うには、声が弱かった。
クリストルンはうつむく。
怒っている。悲しい。腹も立つ。けれど、その全部の下に、父がどれだけ必死だったかという想像が沈んでいく。
「守るための嘘だったんだ」
「立派な嘘じゃねえよ。卑怯な沈黙だ」
「そんな言い方しないで」
思わず出た言葉に、モンジェが目を上げる。
「私は、全部正しかったとは思わない。でも……お父さんが私を大事にしてたことくらい、分かる」
「だったら、それでいい」
「よくない」
クリストルンは首を振った。
「私、子どもじゃない。普通に育ててもらったぶん、今度は知ったうえで一緒に背負いたい」
モンジェはしばらく黙り、それから大きな手で顔をこすった。
「まいったな」
「まいってください」
「娘が強くなりすぎた」
「お父さんが隠しすぎた」
ようやく、二人とも少しだけ笑った。
雨はまだ降っていた。
でも、さっきまでの冷たさとは違う音に聞こえる。
モンジェは湯のみを置き、低く言った。
「全部はまだ話せん。だが、おまえを遠ざけるために黙ってた。それだけは本当だ」
クリストルンはうなずく。
「じゃあ私、近づくから」
「困った娘だ」
「似たんでしょ」
モンジェは今度こそ、ほんの少しだけ肩を揺らして笑った。