~二年後~
ピピッ! ピピッ! ピピッ! ピピッ!…….
ベッドの上の布団からニュッと手が伸び、耳障りなスマホのアラームを消す。
女性は両手を伸ばして「うーん!」と伸びをすると、
ベッドの上に上半身を起こした。
女性の名は水野理紗子、29歳。
二年前に五歳年上の恋人・弘人に突然振られたあの女性だ。
理紗子は先週、杉並のワンルームのアパートからこの品川のマンションへ引っ越して来たばかりだ。
部屋の隅には、まだ片付けられていない段ボールの箱がいくつか積まれていた。
築年数がだいぶ経つこのマンションを、理紗子は一括で購入した。
外観は少し古いが、1LDKの部屋は入居時にフルリノベーションされていたので新築とほぼ変わらない。
理紗子がこのマンションを購入しようと思ったきっかけは、
住む場所さえ確保しておけば生涯独身でも困らないだろうという理由からだった。
また、この部屋が七階にある事も購入の決め手だった。
ずっと高層階に住みたいと思っていた理紗子は、毎朝起きて窓の外を眺めるのが楽しみだった。
眼下には密集した都会の街並み、しかしその上には広い空が広がっていた。
それを見ているだけでテンションが上がる。
本当はタワマンに憧れるけれど、億単位の物件はさすがに縁がないと思っている。
今は、自分で手に入れたこの古いマンションが愛しくてたまらない。
理紗子はこのマンションの立地もかなり気に入っていた。
理紗子には昔から行きつけのお気に入りのカフェがある。
そのカフェの名は「cafe over the moon」。
全国チェーンの誰でも知っている有名なカフェだ。
「cafe over the moon」の意味は、直訳すると「月の上のカフェ」だが、
本当は「天にも昇るほど幸せな状態」という意味らしい。
そんな店名も気に入っている。
理紗子はこのカフェの飲み物とスイーツの大ファンだった。
どれを飲んでも何を食べても、その味は理紗子の好みに合う。
たまに打ち合わせなどで他のカフェに入る機会もあるが、なんだかしっくりこない。
やはり自分はこの「cafe over the moon」じゃないとダメなのだ。
そんなお気に入りのカフェまでは、ここから歩いて二分で着く。
「cafe over the moon」は都内に数えきれないくらいの店舗があり、
このマンションからでも十分~十五分の徒歩圏内に三店舗もある。
もし、一番近い店が何かの理由で閉店しても代わりの店が三つもあるのだ。
こんな幸せな事はない。
そんな立地の良さが、最終的にマンション購入の決め手になった。
理紗子は現在、執筆業を生業としている。
筆名は『水野リサ』と言い、何冊もの恋愛小説を出版していた。
二年前、弘人に振られた時には普通の会社員だったが、今は人気恋愛小説家として収入を得ている。
小説は大学時代から趣味で書き続けていた。
大学を出て会社に就職してからも執筆は続け、時折ネット小説サイトに投稿したりもしていた。
別れた弘人とは社内恋愛だったが、二人が交際している事は社内では誰も知らなかった。
だから振られた後もそのまま会社で働き続けていたが、
その後弘人が、理紗子の二歳年下の後輩と付き合っている事を知る。
さらに最悪な事に、実は弘人は理紗子と別れる半年前からその後輩と交際を始めていたと人づてに聞いた。
つまり理紗子は半年間二股をかけられていたのだ。
理紗子には思い当たる節があった。
別れる半年位前から二人の間には距離が出来ていた事を。
会う回数が激減し、互いの家への行き来もなくなった。
たまに会う時はカフェや手頃な居酒屋がほとんどだった。
だからダブっていた半年の間、実はもう二人の間に男女の関係はなくなっていた。
今思えば、弘人は着々と計画的に理紗子と距離を取り始めていたのだろう。
その後、社内で弘人と後輩がいちゃついているシーンを度々目撃するようになる。
振られた直後にそれを見るのはさすがに辛い。
そこで理紗子は転職する事を決意した。
転職活動を始めた頃、理紗子の書いた小説が急に脚光を浴びた。
その小説はすぐに書籍化と漫画化されて、その後さらに映画にもなった。
そしてその映画は大ヒットを飛ばした。
それをきっかけに理紗子の名前は世間に知れ渡り、恋愛小説の執筆依頼が殺到した。
しばらくは会社勤めをしながら休日のほとんどを執筆に費やし、
来る仕事は拒まず全て引き受けるようにしていた。
その努力の甲斐があり、気付くと収入が今までの五倍以上に膨れ上がっていた。
そこで理紗子は退職を決意する。
これからは小説家としてやっていこう。
もし途中で仕事が来なくなったら、その時はまた再就職すればいい。
先の事はあまり考えずに、その後も来る仕事は全て引き受けるようにしていた。
すると仕事は減るどころかどんどん増える一方で、
今では小説執筆以外の仕事のオファーも来るようになっていた。
それは例えば、
漫画の原作案や、
女性向け雑誌のコラム、
恋愛相談へのコメント依頼、
ファッション誌の「恋する服特集」のアドバイザーや、
若い女性向けの旅の企画、
そして、デートにお勧めのレストラン企画や、
時にはラジオ出演等、
その種類は様々だ。
これらの仕事を今しかできないチャンスだと捉え、理紗子は全ての仕事を快く引き受けた。
『どうせやるなら楽しまなくちゃ!』
そうやって忙しく仕事に没頭しているうちに、
弘人との辛い出来事は一切思い出す事もなくなっていた。
理紗子はベッドから飛び起きると、早速カーテンを開けて外の景色を眺める。
目の前には真夏の青空が広がり、遠くには夏の風物詩でもある入道雲が見える。
今日も天気は良さそうだ。
理紗子はシャワーを浴びると、髪を乾かしてから生成りのサマーセーターと白のパンツに着替えた。
そして軽くメイクをすると出かける準備を始める。
机の上のノートパソコンをお気に入りの黒のリュックに詰め込むと、
スマホとマンションの鍵を手にして部屋を出た。
外に出ると、真夏の太陽がジリジリと肌に照り付ける。
普段室内でずっと仕事をしている理紗子にとって、こうして外を歩く時こそ夏を体感するチャンスだ。
理紗子は日頃の運動不足を解消するように、一歩一歩大きな歩幅で歩き始めた。
歩くと言っても目的地まではたった二分で到着するので大した運動にはならないが…。
そしてあっという間にカフェの入口へ到着した。
コメント
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トントン拍子に作家デビューして書籍化に映画化✨生き生きと素敵な女性に変身しましたね😆 元カレは半年も同じ会社のオンナとダブってた💢最低😒 でも⤵️チンの貧乏神だったみたいだからくれてやって良かったのでは⁉️