テラーノベル
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午後の教室は、熱がこもっていた。
窓は開いているのに風は入らず、湿った空気だけが机の間に滞っている。
黒板の前では教師がチョークを走らせていたが、その音すらどこか苛立っているように聞こえた。
最初から機嫌は悪かった。
小テストの出来が悪かったらしい。
「何回やらせれば分かるんだ」
振り返らずに言う。
言葉だけが教室に落ちる。
誰も答えない。
答えられる空気じゃない。
その沈黙ごと、苛立ちは溜まっていく。
遥はノートを開いたまま、ほとんど文字が頭に入ってこなかった。
さっきからずっと、背中のあたりに視線が張り付いている気がする。
振り返らなくても分かる。
後ろの席。
小さく、何かが触れる感触。
机の中。
一瞬だけ手を止める。
見ない方がいい。
そう思ったのに、視線が落ちる。
中に、見覚えのない財布が入っていた。
(……なんで)
触れていない。
入れた覚えもない。
それでも、そこにある。
「先生」
後ろから声が上がった。
それまでの湿った空気を、わざと切るような声だった。
「財布、なくなりました」
教室の空気が動く。
ざわめきは小さいのに、方向だけがはっきり揃っていく。
教師がゆっくり振り返る。
苛立ちをそのまま引きずった顔のまま。
「どこでだ」
「さっきまであったんですけど」
「机か」
「はい」
視線が流れる。
黒板から、前列、横の列へと順番に。
探しているというより、当てにいくような動きだった。
止まる。
遥で。
「……それ」
誰かが呟く。
「今、見えてるやつじゃね?」
その一言で、視線の向きが固定される。
逃げ場がなくなる。
教師の目も、同じ場所に落ちる。
遥の机の中。
「出せ」
短く言われる。
(違う)
頭の中でだけ出る。
「違います」
声にすると、思ったより弱かった。
教師の表情は変わらない。
むしろ、少しだけ面倒そうに歪む。
「いいから出せ」
その言い方は、確認ではなかった。
もう結論が決まっている声だった。
逆らう余地は残っていない。
遥は手を入れる。
さっき見た感触が、そのまま指に触れる。
取り出す。
黒い財布。
それだけで十分だった。
「それだな」
持ち主の声がすぐに重なる。
迷いもなく。
教室の空気が、そこで一段落ちる。
納得した形で。
「なんで持ってる」
教師の声が落ちる。
問いの形をしているが、答えを求めていないのは分かる。
「……入ってた」
それしか出ない。
一瞬の間のあと、小さな笑いがあちこちで漏れる。
「誰が入れたんだよ」
「またそれ?」
軽い声。
だが、その軽さのまま逃げ道を潰していく。
教師がため息をつく。
「お前な」
それだけで、方向が決まる。
「いい加減にしろ」
声が低くなる。
「そういうの、通じると思ってるのか」
(違う)
言葉は、もう出ない。
後ろから視線が刺さる。
笑いを抑えている気配が分かる。
「盗ってないなら説明できるだろ」
できない。
説明のしようがない。
「……分かりません」
その瞬間、机を叩かれる。
音が強く響く。
体が反射的に揺れる。
「分からないで済ませるな」
苛立ちが、そのまま向けられる。
「人の物だぞ」
さらに一歩、距離が詰まる。
「どう見てもお前が持ってただろうが」
事実が、形を変える。
持っていたことだけが切り取られる。
「違います」
もう一度出す。
今度は少し強く。
その瞬間、教師の手が襟を掴んだ。
強く引かれる。
「声でかくすればいいと思ってるのか」
息が詰まる距離。
「態度がなってないんだよ」
腹に衝撃が入る。
鈍い。
息が抜ける。
声が出ない。
「分かってんのか」
もう一度押される。
背中が机の角に当たる。
遅れて痛みが広がる。
後ろで笑いが起きる。
「ほら」
「やっぱだろ」
「顔見れば分かるって」
遥は息を吸おうとするが、うまく入らない。
視界が少し揺れる。
教師が手を離す。
「謝れ」
短く言う。
(やってないのに)
その言葉だけが残る。
でも、言えない。
ここで言えば、もっと長くなる。
分かっている。
「……すみません」
出した瞬間、教室の空気が緩む。
それでいい、という形になる。
「最初からそうしろよ」
誰かが言う。
「無駄に時間使わせんな」
笑いが戻る。
教師もそれ以上は何も言わない。
財布は持ち主に戻る。
中身を確認する仕草だけが形式的に行われる。
「全部あるわ」
それで処理される。
何事もなかったように。
しばらくして、
「あ」
という声が上がる。
別の席。
「お前、あとで分かってるよな?」
軽い声だった。
どこか面白がるような。
一瞬、空気が止まる。
だが、それだけだった。
誰も追及しない。
教師も振り返らない。
ただ、
「紛らわしいことすんなよ」
と、短く言われて終わる。
遥は席に戻る。
机の中には、もう何もない。
さっきまであったはずの感触だけが残っている。
腹の奥に残る鈍い痛みと、引かれた襟の感触。
ここでは、何が起きたかよりも、誰に向けるかの方が先に決まる。
苛立ちは流れる場所を探して、ちょうどそこに落ちる。
理由は、あとから付く。
それだけのことだった。
コメント
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うわ、重い……読んでて胸がギュッてなった。 先生の機嫌の悪さが最初からずっと乗っかってて、教室の空気そのものが遥くんに圧し掛かってる感じがすごくリアルだった。 「説明できない」ってなった瞬間、もう逃げ道がないんだって分かって、こっちまで息ができなくなった。 これ、正当化されない暴力をちゃんと「不快」として描いてるのが本当にすごいと思う。 続き、読まなきゃ。
ℝ𝕒𝕟
269
こぬぬー(響)
120