その夜、自宅に戻った朔也は、工房の二階で珍しくウイスキーを飲んでいた。
二階には広々としたリビングがあり、ほかに二部屋。寝室とゲストルームがある。
朔也はリビングの窓辺のソファに腰を下ろし、暗い夜の海を眺めながら、過去の記憶を思い返していた。
十年前のあの日も、こんな寒い夜だった。
朔也は、ある女性を迎えに、あのバス停へ向かった。
しかし、空港からの最終バスに彼女の姿はなかった。
その女性の名は今井香織。当時二十七歳。
香織は、朔也の大学の三期後輩だった。
そこで、朔也はふっと笑みを漏らした。
(あれからもう十年経つのか……早いな……)
朔也は、十年という節目の年に思いを馳せ、何かを決心したような表情を浮かべた。
そして、光る灯台の灯りを眺めながら、残りのウイスキーをグイと飲み干した。
それから一週間が過ぎた。
朔也をバスターミナルで見かけて以来、美宇は悶々としていた。
いっそのこと、あの行動の意味を直接問いただせばいい。けれど、それはできなかった。
なぜだかわからないが、そこには触れてはいけない何かがあるような気がしていた。
(別れた彼女を待ってたの? でも、彼女は姿を現さなかった?)
普通に考えれば、そういう結論に至る。
そう思うと、美宇の心はまるで重しが乗ったように、ずしりと重くなる。
(やっぱり、青野さんはまだ別れた恋人に未練があるのかもしれない……)
そう感じた美宇は、自分の抱えているこの想いを、決して口にしてはいけないと思った。
だからこそ、彼女は今後も一スタッフとして朔也と関わっていくことを心に誓った。
(これでいいの……傍にいられるだけで十分……)
そう心の中で呟きながら、美宇はいつものように仕事を始めた。
一日を無事に終えた美宇は、帰りに曽根夫婦が営むカフェに立ち寄った。
家に帰る前に、コーヒーを飲んでひと息つこうと思ったのだ。
店に入ると、ちょうどフロアにいた綾が笑顔で声をかけてきた。
「美宇ちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは。お茶だけでもいいですか?」
「もちろん、どうぞ」
「おじゃまします」
星空の観望会以来、曽根夫婦は美宇のことを「美宇ちゃん」と呼んでくれるようになった。
綾も蓮も、美宇にとってここで出会った大切な友達だ。
カウンターの隅に腰を下ろし、メニューを眺めていた美宇のもとへ、綾がお冷を持ってきてくれた。
「今、仕事の帰り?」
「はい」
「お仕事は順調?」
「まあまあですね」
美宇は笑顔で答えた。
「年が明けたら、すぐに個展の準備で忙しくなるわね」
「はい。青野さんは今、作品作りの追い込み中みたいです」
「やっぱり!」
「あ、カフェラテをお願いします」
「はーい、ちょっと待っててね」
綾はそう言って、カウンターの中でドリンクを作り始めた。
そのとき、蓮がバックヤードから顔を出した。
「美宇ちゃん、いらっしゃい。朔也先輩の調子はどう?」
「ちょっと前までは遅れ気味でしたが、巻き返して、なんとか作品展には間に合いそうです」
「それはよかった。札幌には美宇ちゃんも同行するんでしょ?」
「その予定です」
「それなら安心だな。ああ見えても朔也先輩は少しおっちょこちょいなところがあるから、美宇ちゃんがついていてくれると心強いよ」
「そうそう、朔也さん、ちょっと天然なところもあるしね~」
二人の言葉に、美宇はふふっと笑った。
「あ、私たちがこんなこと言ってるのは内緒よ~」
「そうそう、いじけちゃうからな~」
「承知しました」
その瞬間、三人は思わず声を上げて笑った。
「じゃ、僕は奥で仕込みがあるから、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
蓮が姿を消すと、綾が美宇の前に作りたてのカフェラテを置いた。
「どうぞ」
ラテには、ハートのラテアートが描かれていた。
「わ、可愛い」
「美宇ちゃんのイメージでハートにしたの」
「嬉しい! でも、飲むのもったいないです」
美宇はしばらくハートの絵柄を眺めたあと、ラテを一口飲んだ。
それはとてもクリーミーで、ほっとするような優しい味だった。
そのとき美宇は、綾ならこの前の朔也の行動について何か知っているかもしれないと思い、聞いてみることにした。
「実はこの前、駅前のバスターミナル近くの店にいたら、青野さんを見かけたんです」
その言葉に、綾は驚いた顔を見せた。
そして、美宇に尋ねた。
「この前って、いつ頃?」
「たしか……11月11日だったかな?」
美宇が日付を告げると、綾はじっと何かを考えるように黙り込んだ。
「どうかしましたか?」
「ううん……何でもないわ。でも、なぜバス停になんていたのかしらね?」
綾の言葉には、どこかよそよそしさが感じられた。
それは、綾にとっても触れてはいけない話題なのかもしれない……美宇はなんとなくそう思った。
そこで、美宇は話題を変えることにした。
「青野さんって、恋人はいらっしゃるんですか?」
思い切って口にした瞬間、美宇は自分の大胆な言葉にドキドキしていた。
けれど、長い付き合いの綾なら何か知っているかもしれない……そう思うと、聞かずにはいられなかった。
そんな美宇の問いに、綾はこう答えた。
「うーん、今はいないんじゃないかな。でも、どうしてそんなことを聞くの?」
綾にそう聞かれて、美宇は焦った。
「あ……実は先日、高梨さんという女性が尋ねて来て、もしかしたらと思って……その方は、今度札幌である個展の関係者なんですが……」
これなら不自然に思われないはず。
一スタッフとしての素朴な疑問としてごまかせる……そう考えた美宇は、『高梨亜子』の名前をあえて口に出した。
しかし、綾は少し戸惑ったような表情を浮かべていた。
「うーん、その人と朔也さんは、何もないんじゃないかな……あくまでも仕事上の付き合いだと思うけど」
その答えに、美宇は少しホッとした。
「そうですよね……でもすごく綺麗な方だったので、もしやと思って。すみません、変なこと聞いて」
「ううん、気にしないで。ただ、朔也さんはそんな浮ついた人じゃないから、いくら美人でもそう簡単にはなびかないと思うよ」
「そう……なんですか?」
「うん。東京にいた頃は相当モテてたし」
「やっぱり……そうだと思ってました」
「ふふっ、だって、あの甘いマスクに優しい声、憂いを帯びたイケメン芸術家よ……誰も放っておくわけないもの。だから、東京時代はいろんな意味で大変だったみたい」
「いろんな意味で?」
「そう。彼の作品に目を留めたマダムたちにもモテたし、若いファンや芸術家の卵たちからも慕われてたし……それに、仕事の関係者からもよく誘われていたみたい。それこそ『モテない時期がなかった』っていうくらい。だから、生まれ故郷のこの町に戻ってきて『やっとゆっくり作陶に専念できる』って笑ってたわ」
「そうなんだ……」
予想はしていたものの、そこまでモテて大変だったとは思っていなかった美宇は、あらためて朔也の人気ぶりを実感した。
それと同時に、彼のバス停での奇妙な行動については何も情報が得られず、少しがっかりしていた。
一方、綾は笑顔を浮かべながらも、心の奥ではこう思っていた。
(朔也さん……まだ……)
そう感じながら窓の外に目を向けると、本格的な大粒の雪が、しんしんと降り始めていることに気づいた。
コメント
27件
10年待ち焦がれてた香織さんが戻らないことを認めて諦めて、美宇ちゃんが気になることに目を向けた瞬間に戻ってくるパターン⁉️ それとも朔也さんは戻らない人を待ってる⁉️ 朔也さん、美宇ちゃん、2人とも辛いパターンをみるのも辛い…💔
あれから10年ということは、30歳くらいの頃だね。うーん香りさんは27歳? 存命だとして… 揺れ動く歳ごろだと思うし、相手のことをわかっているつもりでも、そうではないところがあって、それを中々受け入れることができないと思う。ましてや27歳だもの。 朔也さんの決心とは、もう待つのはやめて諦めようかな? でも、そんな時に戻って来るのよ。 あれから10年、後悔する時期よ。大切だったことに気付くのよ。 やり直したいと思って戻って来るタイプか、その気持ちを心にしまい生きていくタイプか… 前者かな?だろうな。 もしもう逢えない…のならば やはり10年ということで、ここで一区切りをつけようと思っているのでは? 生涯忘れることのないかけがえのない人として大事に胸の奥にしまうのかな🥺

ハピエンマリコ先生を信じます‼️😭