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#すれ違い
おまる
#ワンナイトラブ
翌日の昼休み、常盤リビングの給湯室は珍しくにぎやかだった。
会議続きの午前を終えた社員たちが、紙コップ片手に行き交う。電子レンジの回る音、ポットの湯気、誰かの弁当箱のふたが閉まる乾いた音。その真ん中で、悠太朗が妙にうれしそうな声を上げた。
「見つけた。今日の当たり」
晴哉が冷蔵庫の上に置いていた、小ぶりの保存容器を勝手に持ち上げている。中には、朝のうちに実家から持ってきたきゅうりの漬物がきれいに並んでいた。薄く切られた緑に、刻んだ生姜が少しだけ散っている。
「勝手に開けるなよ」
晴哉が手を伸ばすより先に、悠太朗はもうふたを外していた。
ぱこん、と軽い音がする。
その音に、給湯室のあちこちから視線が集まった。
「うわ、いい匂い」
「また持ってきたんですか」
「営業部の福利厚生が強すぎる」
夢鈴が箸を探し始め、知雅は笑いながら紙皿を差し出した。いつの間にか、ただの昼休みが小さな試食会みたいになっていく。晴哉は呆れ半分で肩を落としたが、こうして誰かが少しでも機嫌よく午後へ向かえるなら、それも悪くないと思ってしまう自分がいた。
「ひとり一枚ずつですよ。午後もあるんで」
言いながら取り分けていると、給湯室の入口で足が止まる気配がした。
麗だった。
昼でも姿勢が崩れない人だな、と晴哉は思う。薄いグレーのブラウスの袖口はきちんと整い、手には水だけ入った透明なボトル。昼食を急いで済ませてきたらしく、腕時計に一度目をやってから、何事もなかったように中へ入ってくる。
悠太朗が目ざとく声を上げた。
「ちょうどよかった。進行管理にも支給されます、晴哉印のきゅうり」
「支給ではありません」
麗はぴしゃりと返したが、その場から出ていこうとはしなかった。
晴哉は紙皿を一枚差し出す。
「よかったら。味は、たぶん保証できます」
「たぶん、なんですね」
「社内資料よりは精度高いです」
昨日のことを引きずっているなら、さすがに滑るかもしれない。そう思ったが、夢鈴が吹き出し、知雅も肩を揺らした。麗だけが少し遅れて、ほんのわずかに口元をほどく。
「……では、一枚だけ」
受け取った箸が、きゅうりをそっと挟む。麗は口に運んで、静かに噛んだ。
その瞬間だった。
きちんと閉じていたまぶたの力が少し抜け、頬のあたりにごく薄い変化が走った。笑った、というほど大きくはない。ただ、固く張っていたものが一瞬だけゆるんだのが、そこにいた全員に分かった。
悠太朗がすぐに反応する。
「今、顔変わった」
「変わってません」
「変わりましたよね」と夢鈴。
「変わったな」と知雅。
麗は三方向から言われて眉を寄せたが、否定の勢いが少し足りなかった。
「……生姜が効いていて、食べやすいです」
たったそれだけの感想なのに、晴哉の胸のあたりが妙に軽くなる。昨日から会話のたびに角が立っていた相手が、自分の持ってきたものをちゃんと味わって、ちゃんと感想にして返してくれた。その事実だけで、昼の蛍光灯まで少し明るく見えた。
夢鈴がにやりとする。
「晴哉さん、今の顔、社内報に載せたい」
「やめてください」
「見出しは“漬物一枚で春が来た”」
「来てません」
笑いがひと回りしたあと、知雅が何気なく晴哉に聞いた。
「これ、やっぱりお店の味?」
「うん。うち、駅前で漬物屋やってるから。朝、樽から上げたやつ」
言ってから、しまったと思った。別に隠しているわけではないが、自分から広げる話でもないと思っていたからだ。ところが悠太朗は、そういう遠慮を見逃さない。
「しかも晴哉んとこ、母ちゃん亡くなってから親父さんとおばあちゃんと三人で回してるんだよな。おまえ、この前も店閉めたあとに値札作ってたじゃん」
「あの話、そこまで言う必要ある?」
「あるだろ。美味い理由が増える」
笑いに紛れて流されそうになったが、麗だけは黙って晴哉を見ていた。からかうでも、同情するでもない目だった。事情を勝手に重たくもしないし、軽く扱いもしない。晴哉はその視線に、かえって言葉を足したくなる。
「そんな大げさな話じゃないです。家族でやってるだけで」
「家族で続けるのは、大げさじゃなくても簡単ではありません」
麗の返しは短かった。でも、その短さの中に、勝手な慰めよりずっとまっすぐなものがあった。
給湯室が少し静かになる。
今度は麗のほうが気まずそうに視線を落とした。自分から踏み込みすぎたと思ったのかもしれない。晴哉はその空気を変えたくて、紙皿を持ち上げる。
「じゃあ、その簡単じゃない家の味、もう一枚いきます?」
「いりません」
「間が早い」
「でも、夜まで残ってたら、いただくかもしれません」
「予約入った」
それを聞いて、夢鈴が机を叩いた。
「はい今の、恋のおまじない一歩手前」
「何の話ですか」
「好きな人の家の味を二回食べると、歩幅が合うってやつ」
「初耳です」
「今つくったでしょ」と知雅が淡々と刺す。
また笑いが起こる。麗は呆れたようにため息をつきながらも、少しだけその場に残ったままだった。
昼休みの終わりが近づき、人が散り始めたころ、給湯室には晴哉と麗だけが残った。洗い物の音が小さく響く。
晴哉は保存容器のふたを閉めながら、昨日から引っかかっていたことを口にした。
「昨日、会議で言ってた防犯ブザーの握りやすさですけど。あそこまで細かく見るの、やっぱり理由ありますよね」
麗は水道の蛇口を止めたまま、少しだけ考えるように黙った。
聞きすぎたかもしれない。そう思った時、彼女は壁の白いタイルに目を向けたまま話し始めた。
「弟がいます。四月から中学一年です」
晴哉はうなずいて続きを待った。
「今月、通学路で不審者情報が二回ありました。迎えに行ける日ばかりじゃないので、防犯ブザーは持たせています。でも、いざという時に握りにくかったり、引っぱる向きが分かりづらかったりしたら、意味がない」
声はいつもと同じ静かさなのに、その中にだけ、細い棘みたいな切実さが混じっていた。
「前に、弟がランドセルの脇でブザーを引っかけて鳴らせなかったことがあって。本人は平気な顔をしていましたけど、私は……」
そこで言葉が切れる。
麗は自分の手を見た。細い指先が、無意識に何かを握る形になっている。
「守る物なら、きちんと守れてほしいんです。音量も、形も、持ち替えずに使えることも。売場で見栄えがいいだけでは、困るので」
晴哉はすぐには返事をしなかった。
昨日の会議で、自分は彼女を細かい人だと思った。時間と数字ばかり見ているように感じた。けれど今、彼女が見ているのは、たぶん数字の先にいるひとりの弟だ。もっと言えば、帰り道で肩をすくめるかもしれない、顔も知らない子どもたち全員なのだろう。
「……そっか」
晴哉がようやく出せたのは、それだけだった。
だが麗は、その短い相づちに、余計な慰めが混ざっていないことに気づいたらしい。少しだけ肩の力を抜き、水道の横に置いていたハンカチで手を拭く。
「厳しく言いすぎたなら、すみません」
「え」
「昨日の会議です。資料のことも」
思いがけない言葉に、晴哉は目を丸くした。
「いや、あれは完全にこっちのミスです。俺のほうこそ、空気ばっかり何とかしようとしてました」
「空気が悪いと、人は話さなくなります」
「ですね」
「でも、整理されていないまま和ませようとすると、あとで誰かが困ります」
「それも、ですね」
晴哉が笑うと、麗もほんの少しだけ目元をゆるめた。
その時、内線が鳴った。
給湯室の壁際にある電話だ。晴哉が取ると、相手は二階試験室にいる優元だった。
「晴哉さん、今いいですか。子どもモニターの追加結果が出ました。知雅さんと麗さんも来られますか」
晴哉は受話器を押さえ、麗を見る。
「二階、行けます?」
「はい」
試験室には、知雅がすでに来ていた。机の上にはボタン部を微調整した試作品が三種類並び、横には小さな手で押した跡がついた記録用紙が広げられている。
優元は無駄な前置きをしない人だった。記録用紙を一枚ずつ並べ、真ん中のサンプルを指す。
「押す位置を分かりやすくしても、根本の圧が重い。小学一年の子だと、親指に力を入れる向きが定まらないと閉じ切れません」
知雅が眉を寄せる。
「受け側の金具を変えるしかないですか」
「変えるなら、金型の段取りも全部ずれます。来週頭の量産入りは厳しい」
空気がひやりとした。
晴哉は記録用紙を見つめた。途中まで押して、最後で留まらない丸印。何度もやり直した跡。昼休みに麗が言っていた「いざという時に使えなかったら意味がない」という言葉が、そのまま紙の上に残っているようだった。
麗が一歩前に出る。
「延期の可能性も含めて、今ここで判断したほうがいいです。無理に通して売場で不具合が出たら、立て直しがききません」
晴哉は息を吸った。取引先への連絡、販促物の差し替え、売場設計の組み直し。頭の中で一気に現実の作業が広がる。けれど、それでも、ここで目をそらすわけにはいかなかった。
優元は机の上の試作品を見下ろし、迷いなく言った。
「今のままでは現場は通せない」
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