テラーノベル
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第一幕の簡易通しは、雨上がりの夜に行われた。
橋の下の床はまだ少し湿っていて、椅子の脚を引くたびに細かなきしみが走る。ジャスパートはその音さえ拾いたそうな顔をしていたが、今夜は録音機より先に、そこにいる全員の呼吸へ耳を澄ませていた。
「途中で止めない」
ホレが確認する。
「照明の直しも、段取りの口出しも、いったん最後まで我慢」
「俺も?」
サベリオが聞く。
「特にあんた」
モルリが即答した。
通しが始まる。
第一場、雨宿り。
しずくの音。入口のためらい。言えない時間。サベリオの一行は、前より少しだけ深く落ちた。うまくやろうとする力が抜け、その代わりに、そこで立っている人の体温が乗る。
第二場では、モルリが勢いそのままに場を動かし、ヌバーが空気をずらしすぎる寸前でホレの視線に止められる。ミゲロの一言は相変わらず小さいのに、なぜかちゃんと届く。デシアの台詞は、昨日書き直した部分から輪郭がはっきりした。
第三場、橋の下に笑いが広がる場面で、ヌバーが少しだけ間違えた。
一文字飛んだ。ホレが眉をぴくりと動かす。けれどヌバーは止まらず、その飛んだ分だけサベリオが自然に息を足した。デシアもそこで言葉を受け直し、場面が前より生きた。
ジャスパートが壁際で小さく笑う。
間違えたのに、崩れない。崩れないどころか、誰かが落としたものを別の誰かが拾って、前へ進む。
それはこの劇団そのものみたいだった。
最後の場面。橋の下にいた人たちが、それぞれの帰る場所へ戻りかけながら、もう一度だけ足を止める。
デシアの声が静かに落ちる。
サベリオは台本の最後の一文を言い終えたあと、余計な動きをしなかった。ただそこに残る。去っていく人の背中ではなく、去れなかった人の足元で立つ。
その静けさに、皆がすぐ口を開けなかった。
終わったのに、しばらく橋の下の空気が動かない。
やがてヌバーが、いつになく控えめに拍手した。
「……これ、いけるかも」
ミゲロも手を叩く。ホレは目元を押さえながら、「段取りはまだ直す」と言った。モルリは笑っているのに鼻が赤い。ハルティナとトゥランは顔を見合わせて、同時に大きく頷いた。
デシアは台本を胸に抱いたまま、何も言えずにいた。
完成ではない。けれど、形にはなった。昨日まで紙だったものが、今夜たしかに人の声で立ち上がった。
サベリオは橋の上を見た。欄干の隙間から、雲の切れた夜空が少しだけのぞく。春の終わりの風が、湿った床をゆっくり乾かしていく。
その時、入口で足音が止まった。
ニカットだった。いつもの固い封筒を持っている。
皆の顔から、熱が少し引く。
「こんな時間に何」
モルリが言うと、ニカットは答えず、封筒を差し出した。
ホレが受け取って開く。紙を読んだ瞬間、表情が変わる。
「……時計塔の撤去準備開始日、前倒し」
橋の下が静まり返る。
公開上演の結果が出るまで、撤去そのものは保留。その条件は変わらない。だが、周辺の立入制限と資材搬入が、予定より早く始まると書いてある。
つまり、本番へ向かうための道が、先に狭くなる。
ニカットは唇を結んだまま言った。
「正式通知です。僕が止められる段階は、もう越えてます」
モルリが一歩出る。
「だったらどうしろって言うの」
ニカットは答えない。答えられない顔だった。
その沈黙の中で、サベリオは封筒の端へ目を落とした。紙の向こうに、深い時計の文字盤が見える気がした。時間は待たない。待たないなら、こちらが追いかけるしかない。
デシアが、台本を抱えたまま小さく息を吸う。
第一幕は完成した。
なのに、息をつく暇もなく、次の夜がこちらへ迫ってきていた。
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