「つーばーきー」
「もうっ! ここまで来たんだから、諦めて! ほらっ」
諦め悪く渋り続ける俺の腕を引き、妻がずんずんと病院を突き進んでいく。
器用に編みこまれた髪が、彼女の背中で揺れる。
もう、縄のようなきつい三つ編みじゃない。
年末の病院は、静か。
年内の診療は終わり、入院患者も少なく感じる。
旅行はやめになった。
椿が、そうしたいと言ったから。
自分たちの家でゆっくり過ごそうと言われて想像したのが、クリスマスイズのエロい下着だなんて、内緒だ。
だが、我が妻はそんな妄想を木っ端微塵に打ち砕いてくれた。
一緒に出掛けようとベッドから引っ張り起こされた俺は、椿の言う通りに車を走らせ、まさかと思いつつ、再び祖母の入院する病院にやって来た。
どうやら、祖母が椿を呼び出したらしい。
もう二度と会うことはないと思っていたのに。
とにかく、俺は足取りが重かった。
が、エレベーターに乗ってしまえば、諦めるしかない。
こうなったら、さっさと用件を聞いて帰ろう。
「こんにちは」
三回のノックの後、椿がドアを開けた。
数日前と同じように、祖母はベッドに座っていた。傍らには、見知らぬ女。
四十くらいだろうか。
長いブラウンの髪は緩くうねっていて、真っ赤な口紅が印象的。
真っ白なロングのコートに、足元は真っ赤な短いブーツ。
「彪……?」
その女が、俺の名を呼んだ。
そして、わかった。
俺の母親――――。
いや、それにしては若すぎないだろうか。
「来ましたね」と、祖母が言った。
そして、表情を変えずに続けた。
「彪。あなたの母親、幸子です」
いや、いきなり過ぎだろ。
「へぇ、いい男になったじゃない」
俺の母親だという女は、あっけらかんと言った。
「あ、恨み言は聞かないわよ。この人への苦情も」と、祖母さんを見る。
「ガミガミうるさくて厳しくてうんざりだったろうけど、私もそうだったし」
ガミガミ……?
厳しかったが、うるさかった記憶はない。
祖母さんが、はあっとため息をつく。
「彪は、あなたのようには育てていませんよ」
「は? なにそれ、ずっる!」
「あなたは五十も過ぎて……。まともな言葉遣いはできないのですか」
「相手があんただと昔に戻んのよ」
五十過ぎ……!?
バケモンかよ。
「あなたには、いずれ婿を取って是枝を継ぐ使命があったから厳しくしましたけれど、彪は違いますからね。同じ轍を踏まぬよう、私なりに考えました。それも、良い考えではなかったようですが」
素直に聞けば、厳しく育てた俺の母親で失敗したから、孫の俺は無関心で育てたということだろうか。
いや、なんか釈然としないけど。
「はっ! あれだけ偉そうに自分が育てるって啖呵きっておきながら、情けな!」
「え……?」
祖母さんが俺を育てると言った……?
「幸子さんが育児放棄したんじゃないですか?」
聞いたのは、椿。
オブラートも何もない、単刀直入。
「彪を置いて遊びに行ったりしてたのはホントだけど、結婚する時に一緒に連れて行こうとしたら、この人がダメだって言ったのよ」
「お祖母様が……望んで彪さんを引き取ったんですか?」
「ま、最終的には、嫁ぎ先からも子供を置いて来るように言われたから、同じことだけど」
当の子供を目の前に、なんて言い草か。
コホン、と祖母さんが咳払いをした。
「私が死んだら、あなたたちが顔を合わせることは二度とないでしょう。私も、心残りがあっては穏やかに逝けませんからね」
それにしたって、なんて身勝手な。
「そ。じゃ、顔合わせも済んだし、もういいでしょ」
母親はそう言うと、ふんっと祖母さんから視線を逸らし、カツカツとヒールを鳴らして俺に向かって来た。
ドアが俺の背後にあるのだから仕方がないが、それでも、緊張が走る。
母親は俺の横で立ち止まると、俺を見た。そして、真っ赤な唇が開く。
「ね、彪。なんか喋ってみて」
「は?」
「何でもいいから」
「何でもって――」
「――幸子、って呼んでみて」
「……幸子」
素直に呼んでしまったのは、あくまでも動揺してのことだ。
母親の唇が少しだけ開いた。
ひゅっと驚いて息を吸い込んだように見えた。
「もう一回」
「幸子」
「ははっ。声、あの男とおんなじだ」
「は?」
母親は笑い、俺から目を逸らす。
横顔が僅かに歪む。
泣きそうに見えたのは、俺の気のせいだろう。
「あんたの父親。私、あいつの声で呼ばれるの、好きだったのよね」
「はぁ」
今度は名前すら知らない父親のことか。
「父親が誰か、知りたい?」
「は? いや、別に? ってか、父親の方は俺のこと知ってんのかよ」
なぜか、この母親に敬語を使う気になれず、タメ口で聞いた。
そんなことはまったく気にしていないようだ。
彼女はドアを見て、俺を見ない。
「どうかな。あいつの親にバレて実家に連れ戻されちゃったから、知らないかも」
「なんだ、それ」
「知りたいなら教えるわよ、名前」
「幸子!」
祖母さんが金切り声を上げた。
「いいじゃない、もう時効でしょ」
訳ありらしい。
祖母さんにとっては時効ではないようだが、母親はとうに過去のこととして吹っ切れているようだ。
いや、そもそも俺を捨てた罪悪感なんてあったのか……?
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