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空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
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試用会の終わり際、一人の父親が録音机の前で立ち尽くしていた。
背広の上着を腕にかけ、ネクタイを少し緩めたまま、スマートフォンの録音画面をじっと見ている。何度ボタンを押しても、すぐに消してしまう。
クリストルンは水を差し出した。
「大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫です。たぶん」
そう言う顔が、全然たぶんではない。
「何を入れるか、迷ってて」
「迷いますよね」
「簡単な言葉でいいはずなのに、ちゃんとしたくなるんです」
その気持ちはよく分かる。
近い相手ほど、たった一言が難しくなる。
父親は小さく笑った。
「普段は、早くしろ、とか、危ないぞ、とか、そんなことしか言ってなくて」
「それも大事な言葉です」
「でも、それだけじゃないでしょう」
クリストルンはうなずいた。
「はい」
しばらく黙ったあと、父親はぬいぐるみを見つめた。
「この子に入れるなら、ちゃんと言いたいんです」
「うん」
「面と向かうと、照れるから」
やがて彼は録音ボタンを押した。
一度目は途中で止まり、二度目も首を振って消した。三度目、ようやく深く息を吸う。
『おまえの味方だよ』
それだけだった。
けれど、その短さの中に、迷っていた時間が全部入っていた。
再生すると、ぬいぐるみの中から少しかすれた父親の声が流れる。
少し離れた場所で待っていた息子が、それを聞いて目を見開いた。
「おとうさん?」
駆け寄ってきた子どもに、父親は照れくさそうに笑う。
「そう」
「もう一回」
子どもはぬいぐるみを押し、同じ言葉をもう一度聞いた。
『おまえの味方だよ』
会場が静かになる。
誰も大声では何も言わないのに、空気だけがやわらかく揺れる。
クリストルンは、のどの奥が熱くなるのを感じた。
玩具は、ただ声を運ぶだけじゃない。
言えなかった本音に、形を与える場所にもなれる。
ルチノが小さくつぶやく。
「預けたのは、声だけじゃないな」
「うん」
クリストルンは答えた。
「勇気まで入ってる」
父親はぬいぐるみを抱える息子の頭を、不器用に撫でた。
その手つきに、どれほど言葉が遅れても、届く瞬間はあるのだと知る。
たった一言を預けることは、簡単ではない。
けれど、その難しさごと抱きしめられる玩具なら、きっと意味がある。
クリストルンはそう確信した。