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空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
試用会が終わり、児童館の片づけもほとんど済んだころだった。
ペトロニオが窓の外を見て、小さく首をかしげる。
「……あれ、誰だろ」
クリストルンもつられて視線を向けた。
校庭の端、まだ夕陽の残る道の向こうに、一人の男が立っていた。帽子を深くかぶり、遠くからこちらを見ている。顔の半分は影になっているのに、その立ち姿には見覚えがあった。
「ヴァルボン社長」
ルチノが低く言う。
クリストルンは思わず息をのむ。
社長は会場には入ってこなかった。ただ、子どもたちが笑う様子と、親がぬいぐるみに声を吹き込む姿を、ずっと外から見ていたらしい。
「なんで、あんなところに」
クリストルンがつぶやくと、ルチノは目を伏せた。
「見たいけど、正面から見る資格がないと思ってるんじゃないか」
その言葉は重かった。
片づけを終えて外に出たときには、ヴァルボンの姿はもうなかった。だが、そのまま月椿堂へ戻ると、店先の椿の鉢の前に、また同じ背中があった。
夕暮れが坂道を赤く染める中、ヴァルボンは帽子を脱ぎもせず、黙って鉢を見つめている。
風が吹き、椿の葉がかすかに揺れた。
クリストルンは足を止めた。
声をかけるべきか迷う。責めたい気持ちも、聞きたいこともある。けれど今は、どの言葉も鋭すぎる気がした。
先に動いたのはルチノだった。
「父さん」
ヴァルボンはゆっくり振り向く。
目が合った瞬間、彼は少しだけ眉を下げた。
「……いい試用会だった」
「中に入らなかったね」
「入れなかった」
短い会話の中に、後悔がにじむ。
クリストルンは何も言えず、店の軒先を見上げた。病院へ届ける荷物の準備で遅れていたはずのモンジェが、今日は病室の窓から、きっと同じ夕暮れを見ているだろうと思った。
その夜、病院へ行くと、モンジェは窓際に座っていた。
「見えたの?」
クリストルンが聞く。
「ちょっとだけな」
「社長」
「見えた」
モンジェはそれ以上、すぐには続けなかった。
窓の外の空は、夕暮れから夜へ変わりかけている。
二十年前の沈黙と、今日見ていた背中が、どこかでつながっている気がした。
「お父さん」
「ん」
「次、会うと思う」
「だろうな」
モンジェは静かに目を閉じる。
「逃げないなら、それでいい」
見ていた人が、ようやく表に出てきた。
そのことが、次に来る対面の重さを、静かに告げていた。
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