梅雨が明け、季節は本格的な夏が訪れようとしていた。
あの日以来、三人での生活は穏やかに続き、今ではそれが当たり前のようになっていた。
ここ最近、賢太郎は連日撮影に出掛けていた。
たまに、夜遅くまで撮影して深夜に帰る日もあったが、普段は芹沢家の夕食に間に合うよう帰宅していた。
撮影が早く終わった日や撮影が休みの日には、葉月を職場まで迎えに来る。
そして、二人でカフェへ寄ったり、スーパーで買い物をして帰るのが日課となっていた。
試験前、賢太郎が集中して勉強を見てくれたおかげで、航太郎の成績も無事にアップした。
「賢太郎さんの教え方、すごくわかりやすいんだ。だからバッチリだったよ」
航太郎の成績を見た賢太郎は、ご褒美に二人を『grand swell』へ連れて行ってくれた。
そして、ロコモコとパフェをご馳走してくれる。
航太郎の夏休み前夜は、潮風を感じるカフェのテラス席で、心地よく穏やかに過ぎていった。
帰宅後、航太郎が自室で荷物の最終チェックをしている時、賢太郎が葉月に言った。
「明日は、俺が長野まで送ってやろうかって聞いたら、どうしても電車がいいんだってさ」
アイロンをかけ始めた葉月は、それを聞いてこう答えた。
「こんな機会でもなければ、長距離列車には乗れないもの。だから電車がいいのよ」
「だろうな。だから明日は八王子駅まで送って行くよ」
「え? いいの?」
「うん。ついでに、帰り道に撮影もできるしね」
「わー、助かる! ありがとう」
そこへ、賢太郎が近づいてきたので、葉月はアイロンがけの手を止める。
「お礼はキスがいいな」
耳元でとろけるような声で囁かれた葉月は、一瞬クラッときたが慌てて言った。
「航太郎がいる時は、そういうのはしないって言ったよね?」
「そうだったっけ?」
「言った! だから駄目!」
葉月がきっぱり突っぱねると、賢太郎はガッカリした様子で葉月の頭をクシャクシャッと撫でた。
「はいはい、わかりましたー」
「素直でよろし!」
葉月は、ドキドキする心臓の音を賢太郎に気づかれないようにしながら、再びアイロンをかけ始めた。
翌日、いよいよ夏休みに入った。
航太郎は、今日から五日間、長野の佐伯家にお世話になる。
朝、三人で朝食をとっていると、航太郎がふいに言った。
「俺がいない間、二人に約束してほしいことがあるんだ」
「約束? 何、それ!」
葉月は驚いた顔をして息子に聞き返し、賢太郎も不思議そうな顔をしていた。
「俺がいない間、絶対に喧嘩しないって約束して!」
その言葉に、二人は一瞬ポカンとした。
葉月よりも先にその意味を理解した賢太郎は、途端にプッと噴き出す。
「なんだよー! 人が真面目に言ってるのにさぁ……笑うなんてひどいなぁ」
「ハハッ、ごめんごめん……。何かと思ったら、そんなことか!」
「そんなことじゃないでしょ? 今までは俺がクッション役だったかもしれないんだから、そのクッションがいなくなった途端に喧嘩なんてされたら困るの!」
「何で困るんだ?」
賢太郎に突っ込まれた航太郎は、突然しどろもどろになる。
「えっと、だからぁ……帰って来たときに、家の中が暗いと嫌でしょ?」
「まぁ、確かに」
「だから、二人ともちゃんと仲良くして、俺が帰ったときは笑顔で出迎えてよね」
その言葉に、二人は思わず顔を見合わせる。
それから、賢太郎が言った。
「わかった! 絶対喧嘩はしないって約束する!」
「本当に?」
「うん。指切りするか?」
「ちぇっ! 俺、そんなガキじゃねーから」
そう言いながらも、航太郎がためらいがちに小指を差し出したので、賢太郎は自分の指を絡めて指切りげんまんをした。
その時の葉月は、息子の必死な様子を見て切なくなっていた。
なぜなら、離婚前に元夫の啓介と言い争った時のことを思い出したからだ。
子供の前では絶対に夫婦喧嘩をしないようにしていた葉月だったが、一度だけ航太郎に喧嘩の場面を見られたことがある。
その時の光景を思い出し、葉月は悲痛な表情を浮かべる。
葉月のその表情を、賢太郎は見逃さなかった。
朝食を終え、航太郎が二階で荷物の最終チェックをしている間、賢太郎がもう一杯コーヒーを淹れてくれた。
(家で誰かにコーヒーを淹れてもらうなんて、久しぶり)
コーヒー好きだった父は何度も淹れてくれたが、元夫の啓介が葉月にコーヒーを淹れてくれたことは、一度もなかった。
葉月が美味しいコーヒーを味わっていると、賢太郎が言った。
「さっきは、びっくりしたな」
「さっき?」
「ほら、航太郎が喧嘩しないでって言ったとき」
「ああ……。あれは私もびっくりしたわ」
「前の旦那さんとは、よく喧嘩したの?」
「離婚前は多かったかな。あ、でも、もちろん子供の前ではしないように気をつけてたわよ。ただね、一度だけ見られちゃったのよ」
「喧嘩をしているところを?」
「そう。あの女が乗り込んで来た日の夜だったかな。あの時は結構激しい口論になっちゃってね……で、もう寝たと思っていたあの子が、部屋から出てきて見ていたの。あの時はさすがに『しまった!』って思ったわ」
「そっか。だから、彼は離婚の原因を察していたんだ」
「多分ね」
「で、俺たちにも喧嘩はしてほしくないってわけか」
「元々あの子は、人が言い争うのが嫌いなのよ。根が優しい子だから」
「うん、そうだな。航太郎は、本当に優しくていい子に育ってるよ」
賢太郎がそう言ってくれたので、葉月は嬉しかった。
「お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞じゃないよ。君は女手ひとつで立派に育ててるよ」
「ふふっ、ありがとう」
「でもさ、これから壁にぶち当たったり困った時は、俺に相談しろよ」
「え?」
「今まではひとりで大変だったね。でも、これからは何かあったらふたりで力を合わせて解決していけばいい」
「…………」
その言葉は、葉月の胸に深く響き、心を大きく揺さぶった。
(なんなんの? この安心感は……)
「あ、ありがとう」
「うん……。それにしても、俺が淹れたコーヒーもなかなか美味いな」
「うん、美味しい」
「カフェでも開けそう?」
「うーん、そこまではいかないかなあ?」
「なんだ、残念!」
二人は同時に声を出して笑った。
その時、航太郎が荷物を持って、階段を駆け下りてきた。
「準備できたよ!」
「よしっ! じゃ、行こうか」
「忘れ物ない?」
「大丈夫! なんかあったら流星に借りるし!」
「気をつけてね。みんなによろしくね」
「はーい」
「じゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
葉月は、二人が出て行く姿を玄関から見送った。
コメント
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もう素敵すぎ💓葉月ちゃんと賢太郎様の普通の穏やかな日常❤️航太郎君との約束は絶対守って貰えるしもっと仲良くなっていそう(*^_^*) もしかして二人が泊まりで長野まで迎えに行ったりして この夏休み航太郎君にとっても葉月ちゃんと賢太郎にとっても忘れられない夏になりそうですね❤️
航太郎くんは 離婚前の両親の喧嘩を見てしまい、深く傷ついているんだね....😢 賢さまと母ちゃんはお互いを想い合っているから大丈夫だよ😆👍️💕 安心して旅を楽しんできてね🚝🚆 航太郎くんが帰ってくる頃には 二人はきっと、もっとラブラブになってるよ~💓💏💓🤭ウフフ....
もう立派な家族!