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午後一時、広報の夢鈴が会議室へ入ってきた瞬間、場の空気がわずかにざわついた。
胸元に社員証、片手にノートパソコン、もう片方の手には古びたCDケース。知雅が最初に眉を上げる。
「その荷物、全部いる?」
「いります。今日は士気を上げる日です」
「嫌な予感しかしないな」と悠太朗が笑う。
夢鈴は共有フォルダをモニターへ映した。十年以上前の販促資材が並ぶ中から、ひとつの音源を開く。
「見つけちゃったんです。常盤リビング伝説の販促ジングル」
再生ボタンが押された。
♪あしたの安心 今日から一緒に
♪終わらない 終わらない LOVE SONG
会議室が一瞬だけ静まり、そのあと悠太朗が机に突っ伏した。知雅が口元を押さえ、優元は目を閉じる。妃雛だけが「え、逆にかわいくないですか」と身を乗り出した。
晴哉は吹き出しそうになりながら隣を見る。麗は資料をめくったままだが、耳の先だけがうっすら赤い。
「夢鈴さん」
麗が低い声で言う。
「この会議室は、笑うためではなく、今日決めることを決める場所です」
「もちろんです」
夢鈴はひるまない。
「だからこそです。詰めてる時ほど、一度だけ風を入れたほうが動くんです」
最後に夢鈴の視線が、さりげなく晴哉と麗の間を通る。悠太朗がにやつき、妃雛は「なら売場紹介動画に使えますね」と続けた。
「曲の話より先に、ボタンの再調整です」
優元が即座に戻した。
「現物が間に合わなければ意味がない」
そこから会議は一気に仕事へ戻った。スナップボタンの押し位置の変更、図鑑のページ順の組み替え、防犯ブザーの外装の見直し、取引先へ出す説明文の更新。第四話までとは違い、今日は誰も自分の持ち場だけを守ろうとしなかった。
知雅が修正した試作図を映し、優元が量産に落とし込める条件を絞り、夢鈴が写真の構図を直し、妃雛が売場ポップの文言を出す。悠太朗は取引先へ電話を入れ、晴哉は説明文の改訂を進めた。
麗はホワイトボードに時刻を書き込みながら順番を整えていく。
「先に図鑑のラフを確定します。撮影用の仮データは午後四時まで。ボタン試作は五時半に再確認。晴哉さん、説明文は六時までに私へください」
「了解」
前なら少し硬く聞こえた言い方が、今は違った。急いでいるのではなく、誰かを困らせないために急いでいるのだと分かる。晴哉は説明文に「親子で一緒に確かめやすい内容へ刷新しました」と打ち込みながら、昨夜の倉庫で見た母の字を思い出していた。
夕方、晴哉は印刷した説明文を麗へ渡した。
「導入、少し変えました。注意事項を前に出すより、会話の始まりを置いたほうがいいと思って」
麗は立ったまま目を通し、一か所だけ赤ペンを入れる。
「ここ、“持たせる”より“一緒に確かめる”のほうがいいです」
「一方的すぎますか」
「はい。今回、渡すだけの形にはしたくないので」
「了解です」
修正して返すと、麗は短くうなずいた。
「いいと思います」
「二回目のほう、ちゃんと褒めてくれるんですね」
「最初から悪いとは言ってません」
「言い方の問題です」
「それはお互いさまです」
きっぱり返され、晴哉は笑ってしまう。麗も紙をそろえながら、目元の力をほんの少し抜いた。
だがその日の作業は、定時では終わらなかった。取引先から図鑑の見出し再調整が戻り、優元からはボタンの検証をあと一回入れたいと連絡が来る。午後九時を過ぎ、十時を回り、フロアの照明がところどころ落ちていった。
総務の沙央梨が見回りに来て、扉のところで言う。
「終電、各自確認して。残るなら仮眠室の鍵、受付に預けてある」
「そんな時間までになりません」と麗が即答する。
「その返しをする人が、だいたい最後まで残るのよ」
夢鈴、悠太朗、知雅が順に帰り、フロアに残ったのは晴哉と麗だけになった。
静かになった途端、夜の重さが落ちてくる。晴哉は給湯室で二人分の温かい飲み物を入れた。自分にはスープ、麗には甘くないミルクティー。昼休みに紅茶は飲むが砂糖は入れないと聞いたのを覚えていた。
席へ戻ると、麗は進行表を開いたまま、指先でこめかみを押さえている。
「少し、休みませんか」
カップを置くと、麗は顔を上げた。
「休んでる時間はありません」
「三分でも違いますよ」
「三分止めると、その三分をどこかで取り返すことになります」
「でも、止まらないと崩れる時もあります」
麗は少し黙ってから、カップを手に取った。
「……私、休むのが下手なんです」
「知ってます」
「失礼ですね」
「見てれば分かります」
ひと口飲んだ麗が、目を閉じる。
「甘くない」
「そこは外しません」
「そこだけ妙に自信があるんですね」
「漬物屋の勘です」
「紅茶と漬物は別です」
そんなやりとりのあと、二人はまた仕事に戻った。時計の針が日付をまたぐ少し前、製造管理から返信が来る。明朝一番の再確認で、量産ラインは止めずに済む可能性が高い。
「……間に合うかもしれませんね」
麗が小さく言う。
「間に合わせましょう」
晴哉が返す。
同じ時刻、スマートフォンには最終電車の案内が出ていた。今から駅まで急いでも厳しい。二人は顔を見合わせ、数秒だけ黙る。
「受付、まだ開いてるはずです。仮眠室、使いましょう」
「……会社に泊まるのは、あまり好きじゃないんですが」
「好きな人、そういないと思います」
「晴哉さんは平気そうです」
「平気そうに見せるのが得意なだけです」
言ってから、自分で少し驚いた。麗はその言葉に一瞬だけ目を細めたが、追及はしなかった。
仮眠室は総務横の小さな部屋だった。白い壁、簡易ベッド、畳んだ布団。会社の中なのに、そこだけ別の時間が流れているように静かだった。
「使ってください」
晴哉が手前の布団を指すと、麗は首を振る。
「進行表だけ、あと五分見直します」
「ここまで来て、まだやるんですか」
「明日の朝、自分の字が読めない状態で会議したくないので」
麗はベッドの縁に座ったまま、膝に資料を広げた。晴哉は向かいの椅子に腰を下ろし、自分も連絡文を見返す。部屋は静かで、廊下を誰かが通る足音だけが遠くへ薄れていく。
しばらくして、紙のめくれる音が止んだ。
顔を上げると、麗は資料を持ったまま、壁に軽く寄りかかって眠っていた。背筋を伸ばそうとしたまま力が抜けたような、不器用な眠り方だった。手首の時計だけが、きちんといつもの位置にある。
晴哉はそっと近づき、膝から滑り落ちそうな資料を一枚ずつ抜き取って机にそろえた。それから畳まれた布団を広げ、毛布を麗の肩へ静かに掛ける。
その時、麗のまぶたがわずかに揺れた。
「……ありがとう」
ほんの息に近い、小さな言葉だった。
晴哉は返事をしかけて、やめた。
今ここで言葉を返したら、この静かな一瞬に名前がついてしまう気がした。まだそれを、軽く扱いたくなかった。
だから何も言わず、一歩だけ下がる。机の上には整えた資料。毛布の下では、麗の肩がやっと安心したように少しだけ沈んでいる。
晴哉は向かいの椅子へ戻り、返事の代わりに静かに息をついた。
飲み込んだ言葉は、夜の中へそのまま沈んでいった。