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空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
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翌日、ヴァルボンは本当に病院へ現れた。
面会時間ぎりぎり。整ったスーツ姿のままなのに、どこか疲れて見える。いつも会社で見せる社長の顔より、ずっと年上に見えた。
病室の扉が閉まると、しばらく誰も口を開かなかった。
モンジェはベッドに背を預けたまま、視線だけを向ける。
「社長がこんな場所に来るとはな」
「社長としてではなく、来たつもりだ」
「都合のいい言い方だ」
棘はある。けれど怒鳴り声にはならない。
長い年月が、怒りの表面だけを静かに削ってしまったようだった。
クリストルンは一歩引いた位置に立ち、ルチノは扉のそばで黙っている。
その沈黙を破ったのは、ヴァルボンだった。
「昨日、見た」
低い声だった。
「子どもたちが笑うのを。親が、声を預けるのを」
「それで?」
「……あれを、おまえが二十年前に作ろうとしていたと、改めて思い知った」
モンジェの指先がわずかに動く。
「今さらだな」
「ああ。今さらだ」
ヴァルボンは帽子も持たず、ただ両手を下げて立っていた。その姿は、謝る準備をしてきた人間のものに見えた。
「私は、会社を守るつもりだった」
「結果、何を守った」
「売り場と看板だ」
ヴァルボンは苦く笑う。
「人は、うまく守れなかった」
病室の空気が重く沈む。
「おまえが止めたとき、私は本当は分かっていた。量産を急げば危ないと。だが、遅れを恐れた。損失を恐れた。言い出した者を守るより、表向きを優先した」
「だから俺を切った」
「……ああ」
その肯定が、静かな刃のように落ちた。
クリストルンは唇をかむ。
二十年前に父が失ったものの大きさが、社長本人の口から出るたび、形を持って迫ってくる。
ヴァルボンはまっすぐモンジェを見た。
「すまなかった」
「謝る相手は俺だけじゃない」
モンジェの声は低いが、ぶれなかった。
「俺の娘だ。おまえの息子だ。娘だ。現場にいた連中だ。沈黙で巻き込んだ相手は、もっといる」
ヴァルボンは目を閉じ、ゆっくりうなずく。
「分かっている」
「分かってるだけじゃ足りない」
「分かっている」
同じ言葉なのに、二度目のほうが苦かった。
しばらくして、ヴァルボンはクリストルンへ向き直る。
「きみの企画を、昨日初めて真正面から見た」
クリストルンは姿勢を正した。
「どうでしたか」
「遅すぎた後悔をした」
社長ははっきりと言った。
「守るべきだったものが、二十年前も、昨日も、同じだったと分かったからだ」
ルチノが目を伏せる。
親の後悔を子が聞くのは、楽なことではない。
ヴァルボンは扉へ向かいかけ、そこで足を止めた。
「私は逃げない」
それが誰への宣言なのか、病室にいる全員に分かった。
扉が閉まったあとも、しばらく誰もしゃべらなかった。
やがてモンジェが、天井を見たまま小さく言う。
「本当に遅い」
「うん」
クリストルンは答える。
「でも、来た」
遅すぎた後悔は、失った年月を戻さない。
それでも、ここから何を返すかは選べる。
病室の白い光の中で、そのことだけが、かすかに前を向いていた。