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空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
長い沈黙のあと、椅子の脚が一つだけ床を鳴らした。
エドワインが立ち上がる。
きちんと整えられた髪も、皺ひとつないスーツも、いつも通りだった。けれど顔色だけがわずかに白い。
「私も、話します」
誰も止めなかった。
止められない空気だった。
エドワインは手元の資料には触れず、ただ前を向く。
「私は、会社を立て直す側にいたつもりでした」
その言い方に、クリストルンは違和感を覚える。
守るではなく、立て直す。そこにこの人の人生が出ていた。
「業績が悪化した時期があった。取引先が揺れて、発表の延期が続いて、現場も荒れていた。父は迷っていたし、決断はいつも遅れた」
エドワインの声は淡々としている。
「だから私は、先に汚れる側に回った」
ルチノの眉が寄る。
「汚れる?」
「誰かが切る判断をしないと、会社ごと沈むことがある」
「そのたびに、人の人生を切ってきたのか」
「そうでもしないと守れなかった」
エドワインは初めて少し強く言い返した。
「私は結果でしか、この家に立てなかったの」
その一言が、会議室の温度を変えた。
社内の室長としてではなく、父の前に立つ娘の声だったからだ。
「ルチノは違う。あなたは黙っていても、現場へ行けば受け入れられた。父に似ているから。真っすぐだから。期待されるから」
「それと今の話がどうつながる」
「私は違った。数字で示して、結果で埋めて、勝ち続けないと席がなかった」
ヴァルボンが苦しそうに目を閉じる。
「父を支えたかった」
エドワインは続ける。
「会社を残したかった。白椿トイズが傾いたら、ここで働く人間の生活も消えると思った。だから、嫌われる役を引き受けた」
そこまでは、きっと本音なのだろう。
だが本音だけでは、踏みにじられた側は救われない。
ルチノが低く言う。
「それは献身じゃない」
エドワインが顔を向ける。
「何だっていうの」
「支配だ。自分だけが背負えると思って、人の言葉も傷も踏み越えた」
エドワインの唇が震えた。
すぐに何か返すかと思ったが、声は出ない。
代わりに彼女は、クリストルンを見る。
「あなたの企画を見たとき、腹が立った」
「……私に?」
「違う。ああいうものが、まだこの会社に生まれるんだと思った自分に」
クリストルンは言葉を失う。
「私には、もう、そういう作り方ができなかった」
その告白は小さかった。けれど、誰よりも鋭かった。
結果を積み上げるうちに、何を取りこぼしたのか、自分で分かってしまった人の声だった。
会議室の窓の向こうに、夕方の光が差しはじめる。
エドワインはまっすぐ立ったまま、けれど初めて少しだけ、立つ理由を失った人に見えた。
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