テラーノベル
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翌日、私は昨日のメッセージをまだ返せずにいた。
『今度、もう少し遠くまで行かない?』
たったそれだけ。
難しい文章でもない。
断る理由もない。
むしろ、行きたいと思っている。
なのに、返信欄を開いては閉じる。
『いいよ』
それだけでいいのに。
私はスマホをテーブルに置いた。
少し時間を置けば、自然に返せる気がした。
でも、時間が経つほど変に意識してしまう。
どうしてだろう。
直哉からの誘いは、店で誰かに誘われるのとは違う。
店なら、誘われること自体も仕事の一部だ。
食事に誘われる。
休日の予定を聞かれる。
どこかへ行こうと言われる。
その時の私は、相手の気持ちを考えながら答える。
でも直哉には、それができない。
彼は私の仕事を知らない。
少なくとも、店での私は知らない。
だから、何かを期待させないように笑う必要もない。
断ったら申し訳ない、と考える必要もない。
それなのに。
私は返事を迷っている。
スマホをもう一度手に取る。
『いいよ』
打つ。
送信。
それだけ。
送ってしまえば、あっけなかった。
すぐに返信が来る。
『よかった』
その一言を見て、私は少し笑った。
まただ。
こういう小さなことで、私は嬉しくなる。
その理由を考える前に、出勤の時間になった。
店へ向かう。
昨日と同じようにドアを開ける。
「おはようございます」
「おはよ、ナナちゃん」
高槻さんが先に来ていた。
「早いですね」
「今日はたまたま」
「昨日はいつも早いって言ってましたよね」
「あれは昨日の俺だから」
「何ですか、それ」
笑う。
昨日の会話を思い出して、少しだけ気まずくなった。
高槻さんは、何も言わない。
そのまま仕事の話を始めた。
それが少し助かった。
しばらくして、フロアからスタッフの声がする。
「ナナさん、三崎様です」
「はい」
私は三崎さんの席へ向かった。
「こんばんは」
「こんばんは」
席につく。
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三崎さんは私を見るなり、少しだけ首を傾けた。
「何かありました?」
「え?」
「今日は昨日より機嫌がいい」
私は思わず笑った。
「分かります?」
「分かります」
「そんなに顔に出てます?」
「昨日よりは」
「昨日も分かってたんですか?」
「少し」
三崎さんはあっさり答えた。
「じゃあ、昨日は何だと思ってたんですか?」
「考え事」
「それだけ?」
「それ以上は分かりません」
私は少し安心した。
三崎さんは何でも見抜くように見えるけれど、実際には違う。
見ている。
でも、決めつけない。
それが三崎さんの変なところだった。
「今日も考え事してました?」
「少しだけ」
「昨日より楽しそうですね」
私は笑った。
「そうですか?」
「はい」
「……何でしょうね」
「何か、いいことがあったんじゃないですか」
その言葉に、私は少し黙った。
いいこと。
そう言われると、直哉のことが浮かぶ。
遠くへ行こうと言われた。
ただ、それだけ。
でも、私は嬉しかった。
「……そうかもしれません」
三崎さんの視線が少しだけ変わった。
「珍しいですね」
「何がですか?」
「ナナさんが、自分から肯定するの」
「私、そんなに否定します?」
「しますよ」
即答だった。
「結構」
「そんなに?」
「はい」
私は思わず笑った。
「じゃあ、今日は珍しい日ですね」
「そうですね」
三崎さんも笑う。
それ以上は聞かなかった。
でも、私はなんとなく分かっていた。
三崎さんは、何かに気づいている。
誰かがいること。
その誰かが、店の人間ではないこと。
そこまで分かっているのかは知らない。
でも、私は初めて少しだけ、
知られてもいいのかもしれない、
と思った。
それが三崎さんだからなのか。
それとも、私自身が少し変わってきたからなのか。
分からない。
「ナナさん」
「はい」
「楽しみにしてることがある時って、仕事も少し楽になります?」
突然の質問だった。
私は考える。
「……なるかもしれません」
「やっぱり」
「どうしてですか?」
「今日、少しだけ余裕があるから」
「そう見えます?」
「はい」
私はグラスに視線を落とした。
今日の私は、そんなに分かりやすいらしい。
昨日までは、
誰が好きなのか。
誰に惹かれているのか。
そんなことばかり考えていた。
でも、今は少し違う。
直哉といる時の自分。
真瀬さんの前にいる自分。
高槻さんと話している自分。
三崎さんに見られている自分。
どれも私なのに、少しずつ違う。
その違いを知るたび、
自分の気持ちが余計に分からなくなる。
「でも」
三崎さんが言った。
「分からないままでも、いいと思いますよ」
私は顔を上げた。
「何がですか?」
「今、考えてること」
三崎さんはそれ以上説明しなかった。
私はしばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「……三崎さんって、たまにずるいですね」
「そうですか?」
「はい」
「なら、今日はそれでいいです」
私はまた笑った。
店の中は相変わらず騒がしい。
でも、その騒がしさの中で、
私は昨日までより少しだけ、
自分の気持ちを考えることを怖がらなくなっていた。
コメント
1件
はる。です! めっちゃいい回だった…! ナナちゃんの「『いいよ』って打って送信」するまでの心の動きが細かくて、めちゃくちゃ共感したわ。返信って意外と重いよね。でも送った後の「よかった」の一言で笑顔になるのは、もう完全に恋する乙女じゃん😭💕 三崎さんの「分からないままでいい」っていうセリフもすごく刺さった。ナナちゃんの仕事とプライベートの顔のギャップが自然に描かれてて、この小説の空気感めっちゃ好きだわ✨