テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
昼休みが終わりに近づくと、教室には静けさとは違う、湿ったような気配が漂いはじめる。 喋り声はある。笑い声もある。だが、その輪の中に「遥」の名はなく、彼がどこにいるかを口にする者もいない。
窓際のカーテンの向こう、教室の片隅で椅子に腰かけた遥は、目だけを動かして机の並びを見ていた。
──いつ始まるか、もう誰も予告しない。
背後で椅子を引く音がして、机が軋む。その音が、やがて意図を帯びて近づいてくる。
「……なあ、さっきの数学、見せてくんね?」
声をかけたのは、いつもは無関心を装っていた男子生徒のひとりだった。 遥は黙って、鞄の中からノートを出す。その瞬間、手首を掴まれた。
「見せてくれるって言ってんのに、なんでそんなに反応薄いんだよ」
その言葉に笑いが乗る。取り囲むように何人かが近づいてきた。いつものグループとは少し違う顔ぶれ。
「もうちょっと、“かわいく”頼まれたら渡すかもって思ってたのに」 「っていうか、そういうの、練習したほうがよくね?」 「ねえ、泣く練習って、どれくらいしてんの?」
言葉が矢継ぎ早に放たれる。だが、それ以上に遥の耳に残るのは、語尾に混ざる笑い声だった。
「……俺のノート、要るんじゃなかったのかよ」
乾いた声で返した遥に、一人の生徒が頬を軽く叩いた。音は小さかったが、指先の感触が皮膚に残る。
「喋った。やっぱ、無言より、こういうのが“いい”んだよ」
教室の隅で、クラスの中心とは言い難い数人の生徒が、しかし確かに場を支配していた。 誰も止めない。見ている者はいる。聞いている者もいる。それでも、誰ひとり「やめろ」と言わない。
遥が喋ったとき、教室の空気がわずかに揺れるのを、彼は自覚していた。 それでも黙ることは、もうできない。喋らなければ、何も変わらない。
──けれど、喋ったからといって、変わるわけでもない。
「じゃあ次、これ言って。“……もっと、してください”」
ふざけて言うその声に、遥はしばらく視線を落とし、それからゆっくりと目を上げた。
「……おまえ、それ、親の前でも言えんの?」
一瞬、沈黙が落ちた。だが次の瞬間には、爆笑が巻き起こる。
「うわ、言うねぇ!」 「でもそういうとこ、マジで好きだわー。……なあ、誰かスマホ録ってた?」
遥は立ち上がる素振りを見せたが、その肩が後ろから無遠慮に掴まれる。
「だーめ。勝手に終わらせるのはナシ。今日は“いつもと違うの”やってみるんだってさ」
机が押され、椅子が引かれる。教室の隅、教師の目の届かない死角──その場所が、まるで儀式のように整えられていく。
遥は何も言わなかった。だが、何も考えていなかったわけではない。 どの言葉を言えば、どこまで進行するのか。 どの沈黙が、どの手の動きを招くのか。
「開かれた密室」の中で、それは確かにルールのように成立していた。
「なあ、“お願い”って言ったらやめてやるよ」 「ほら、“ごめんなさい”でもいいよ?」
──そんなもの、言うくらいなら。
「……もういいから、さっさと済ませろ」
その瞬間、一人の生徒が椅子を蹴飛ばした。 衝撃で机が揺れ、鉛筆が床に転がる。
「おまえさぁ、何その態度? “協力”しないと、意味ないんだよ」
肩を強く押され、遥はバランスを崩す。 手をついて、床に倒れた。その姿勢のまま、誰かの足が遥の背中を軽く踏んだ。
「なあ、せっかくだしさ、音、出そうよ。泣き声でも、怒鳴り声でも、喘ぎでも、なんでもさ」
遥は、それでも、歯を食いしばった。 口を閉じたまま、声ではなく、ただ呼吸を震わせる。
それが、彼にできる「最後の抵抗」だった。