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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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創業記念展示会の会場は、開場前からざわめいていた。
白椿トイズの新作展示、歴代玩具の資料、社内外の招待客、取引先、報道関係者。
きらびやかな照明の下で、月椿堂の奥座敷で積み上げてきた時間が、急に遠い世界へ運ばれてきたように思える。
「緊張してる?」
ペトロニオが横からのぞき込む。
「してないって言いたいけど、手が冷たい」
「正常正常。震えてないなら逆に危ない」
「どういう理屈」
「大丈夫、今日は届く日だから」
展示スペースには「椿のリボン」が並んでいた。
やわらかな赤みを含んだ布、抱きしめたとき腕におさまる丸み、胸に隠れた小さな録音部品。目立たせず、けれど見た人が足を止めるように、ヒューバートが光の当たり方まで細かく調整している。
開場と同時に、人が流れ込んできた。
足を止める人。説明文を読む人。くまを抱いてみる人。親子連れも多い。
クリストルンは来場者の反応を追いながら、何度も喉を潤した。
そのとき、会場の奥で子どもの泣き声が響いた。
「ママぁ……!」
小さな男の子だった。四つか五つくらい。人波に押されて母親とはぐれたのか、目を真っ赤にして立ち尽くしている。
近くのスタッフが声をかけても、泣き声は大きくなるばかりだった。
クリストルンは気づけば駆け寄っていた。
「大丈夫。ここにいるよ」
しゃがんで目線を合わせるが、男の子はしゃくり上げて首を振る。
「やだ……ママ……」
「うん、会いたいよね」
視線を落とした先に、展示台の試作品が一体だけ置いてあった。
最終調整用に録音を残していた個体だ。クリストルンは一瞬迷い、それから男の子の腕にそっと抱かせた。
「これ、抱っこしてみる?」
男の子は泣きながらも、反射みたいにくまを受け取る。
小さな腕の中に、やわらかな体がすぽりと収まった。
「ここ、押してみて」
小指の先ほどのボタンを、クリストルンが一緒に押す。
次の瞬間、くまの胸の奥から、やさしい女の声が流れた。
『すぐ行くよ。待ってて』
男の子の泣き声が、ぴたりと止まった。
会場の空気も止まる。
母親の声ではない。試験用に入っていたスタッフの声だ。それでも“誰かが迎えに来る”という言葉は、子どもの体から恐怖を少しずつほどいていった。
男の子はくまをぎゅっと抱きしめたまま、息を整える。
「……ほんとに?」
「うん」
クリストルンは笑った。
「すぐ来るよ」
そのとき、人波の向こうで女性が叫んだ。
「すみません! うちの子――」
駆け寄ってきた母親の顔は、泣きそうなくらい青ざめていた。
男の子はその姿を見た途端、今度は泣かずに走り出す。母親の足に抱きつき、くまを抱えたまま顔を押しつけた。
周囲から小さなどよめきが起こる。
誰かが拍手を一つ打った。
それが波みたいに広がっていった。
クリストルンは一歩下がった場所で、その光景を見つめる。
作りたかったのは、こういう瞬間だ。
誰かの胸の中に詰まった言葉が、届く形になる瞬間。
隣に立ったルチノが低く言う。
「もう、説明はいらないな」
クリストルンはうなずいた。
会場の視線が、「椿のリボン」へ集まり始めていた。