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母親は男の子を抱きしめたまま、しばらく動けなかった。
「ごめんね、ごめんね」
何度もそう言って、髪を撫でる。
男の子はくまを胸に押しつけたまま、ようやく小さな声を出した。
「……こっち、見てって、言ってよかった?」
その一言に、会場のあちこちで息をのむ音がした。
母親は泣き笑いの顔でうなずく。
「言ってよかった。いっぱい言っていい」
「ほんと?」
「ほんと。ママ、ちゃんと見るから」
男の子はもう一度くまを抱きしめ、それから母親の首に腕を回した。
その姿を見た瞬間、クリストルンの胸の奥で、工場見学の日に聞いたあの小さな声がよみがえる。
こっちを見て。
あのつぶやきから、この玩具は始まった。
ペトロニオが袖口で目元を押さえながら、小さくつぶやく。
「だめだ、こういうの、予定外に効く」
「予定外じゃないでしょ」
レリヤが言うが、自分の声も少し揺れていた。
周囲の来場者たちが、自然に展示へ集まってくる。
「これ、録音できるんですか」
「何秒くらい入ります?」
「祖父母の声でもいいの?」
「兄弟にも使える?」
質問は次々に飛び、さっきまで遠巻きだった報道関係者も前へ出てきた。
エマヌエラが説明を整理し、ヒューバートが抱き心地の良さを熱弁し、ディトが安全面の仕様を短く正確に答える。
月椿堂の奥座敷で積み上げたものが、そのまま人前で息をし始めていた。
さきほどの母親が、涙をぬぐってクリストルンの前に立つ。
「これ、売られるんですか」
「今日、正式に決まるはずです」
クリストルンは答える。
「決まってほしいです。私……」
母親はくまを見下ろした。
「忙しいと、見てるつもりでも、見えてないことがあって。さっき、あの子に“こっちを見て”って言われて、やっと気づいたんです」
その告白に、クリストルンはうなずくしかなかった。
責めるための玩具じゃない。
言えなかったことに気づくための玩具だ。
それが、今はっきり分かった。
少し離れたところで、ヴァルボンが立ち尽くしていた。
社長としてではなく、一人の親として、その場面を見ている顔だった。
エドワインも、会場の端で黙っている。いつもの隙のない表情が、今日はほんの少しだけ崩れていた。
クリストルンは展示台の上の「椿のリボン」をそっと撫でた。
届いた。
まだ途中だけれど、ちゃんと届いた。
そのとき、男の子がくるりと振り返る。
くまを抱いたまま、クリストルンに向かって笑った。
さっきまで涙で濡れていた顔なのに、その笑みは眩しいくらいまっすぐだった。
「ありがとう!」
会場の光の中で、その声だけがやけに鮮やかに残る。
クリストルンは思わず笑い返した。
ようやくここまで来たのだと、胸の奥で静かに実感した。
空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙