テラーノベル
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最大増水は、日が落ちる前に来た。
工房の窓を叩いていた雨が、ある瞬間から音ではなく壁になった。
「上流三番、水位が目盛り八!」
泥まみれの伝令が飛び込む。
ムエイルは机いっぱいに広げた水路図へ赤い駒を置いた。
「予測より四十分早いです。五水門すべてを同時には守れません」
「同時じゃなくていい」
ミルヴァが床に並べた筒を蹴るように立ち上がった。
竹に似た中空の茎へ、小さな羽根車と噴き口を付けた散布器だった。
「元種を十倍まで薄める。水へ直接ぶち込むより、上流の浅瀬から細かく撒いた方が接触面積を稼げる。効き目は試験田で見た範囲なら落ちない」
「十倍?」
アキムは一本を受け取った。
「昨日まで八倍が限界だっただろ」
「昨日のあんたの記録を見て、羽根の角度を変えた。文句は成功してから聞く」
ムエイルが即座に数字を書き換える。
「それなら一桶で五地点へ届きます。ただし順番を間違えれば駄目です」
彼女は水門を指した。
「一番、四番、二番、五番、最後に三番。水量と病斑率から、この順です」
「よし」
ディーヴオンが濡れた外套を翻した。
「兵を三隊に分ける。俺は一番へ行く」
「一番は崩落危険度も最高です」
「だから俺が行く」
言い切ると、彼は散布器を担いだ兵たちへ笑った。
「今夜を越えたら、成功した奴の名前は全員覚えて帰るぞ!」
恐怖で硬かった顔に、わずかに笑いが戻った。
アンは祈祷杖を握りしめる。
「私は二番へ。浄化は病原の濃い場所だけに絞ります」
「できる?」
アキムが聞くと、アンは頷いた。
「神の光を弱めるのではありません。照らす場所を選ぶのです」
その答えが、いかにもアンらしくて、アキムは少し笑った。
五人は雨の中へ散った。
最初の三水門までは、計算どおりだった。
一番ではディーヴオンが腰まで濁流へ入り、傾いた止水板を兵と押し戻した。四番ではミルヴァの散布器が詰まり、彼女は泥の中で噴き口を削って再起動させた。二番ではアンが白く濁った水筋だけを光で焼き、その直後へ培養液を流した。
ムエイルから走者が来るたび、投入量と順番が更新された。
「五番へ残り四分の一! 三番へ六分の一!」
だが、五番へ向かう橋が落ちた。
ほぼ同時に、三番へ続く堤道が崩れた。
水路の向こうで松明が揺れている。
距離は遠くない。
走れば数分。
けれど、その数分の道がない。
「迂回路は?」
「五番まで二十五分、三番まで三十分!」
ムエイルの声が雨に削られる。
「水位上昇まで、どちらも十五分ありません」
アキムは背負った小桶を見た。
必要な培養種はある。
人もいる。
足りないのは、道だけだった。
手が帽子へ伸びる。
銀色の膜は、前日の使用で何か所か欠けている。
これを使い切れば、転移の原因を調べる手掛かりは失われるかもしれない。
前世の祖父母の田が浮かんだ。
朝露に濡れた稲。炊きたての米。祖父の背中。
帰れる可能性を、自分から捨てるのか。
胸が痛んだ。
寂しい。
帰りたい気持ちは、まだある。
アキムはその感情を押し込めなかった。
帽子を被る。
視界の端に銀線が走った。
試験田。工房。主水門。何度も泥を踏み、誰かと怒鳴り合い、失敗して、笑った場所。
耳元で声がする。
――いったいどこへ行きたいの。
アキムは濁流の向こうを見た。
「明日の米を待ってる人のところへ」
世界が一歩だけ折れた。
崩れた橋の手前から、向こう岸へ。
数十歩。
膝が砕けそうになる。
五番水門の兵が目を見開いた。
「撒け!」
説明する暇はない。
残量を測り、散布器へ注ぐ。
薄茶の霧が水面へ広がった。
すぐに踵を返す。
三番へは、まだ遠い。
走る。
泥に滑り、転ぶ。
立つ。
銀線が見える場所まで自分の足で進み、崩れた堤だけ帽子で越える。
二度目。
銀膜が大きく剥がれた。
三度目。
視界が暗くなる。
「アキム!」
どこかでアンの声がした。
四度目は、もう帽子から問いが聞こえなかった。
それでも銀線だけは残っていた。
自分が歩いた記憶の線。
最後の崩落の向こうに、三番水門がある。
「ここだ」
アキムは自分で答えた。
踏み出す。
次の瞬間、三番水門の石床へ倒れ込んだ。
帽子から、銀色が雪のように散った。
残ったのは、ただの灰色の布だった。
アキムは小桶を抱えたまま笑った。
「間に合った……」
夜明け前、雨が弱まった。
五つの水門は残った。
処置した水路では白い病斑の広がりも止まっていた。
ディーヴオンが泥だらけの兵を一人ずつ叩いて回り、ミルヴァは壊れた散布器を抱えて座り込み、ムエイルは濡れた紙へ最後の数字を書き込んだ。
アンはアキムの手にある灰色の帽子を見た。
「それ……」
「なくなったみたいだ」
アキムは布を握った。
惜しい。
胸の奥が、確かに痛い。
それでも水田の向こうから、夜を越えた人々の歓声が聞こえた。
アキムは泣きそうな顔のまま笑った。
「でも、間に合った」
コメント
1件
いやー、今回めっちゃ熱かった…!戦闘シーンじゃないのに、アキムが帽子の能力を全部使い切ってでも水門を守り抜く決断が胸に刺さった。「明日の米を待ってる人のところへ」って、帰りたい気持ちを押し♡♡♡て選んだ道なのが伝わってきて泣ける。銀線が散るところ、もう戻れないかもって思わせる描写がうまいなあ…。次どうなるの、早く読みたい🔥
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