テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
朝のホームルームが終わる。
担任が教室を出ると、途端にあちこちで椅子の音が重なった。
窓際では誰かが笑っている。
後ろの席ではプリントを回している。
いつもと変わらない教室。
日下部は何となく窓の外へ目を向けた。
曇り空だった。
視線を戻す。
遥は席についている。
教科書を開き、ノートを広げ、授業が始まるのを待っていた。
それだけだった。
それだけなのに、日下部は目を逸らせない。
(普通だ)
屋上のあとも。
数日前も。
昨日も。
今日も。
遥は「普通」に見える。
見えるだけだ。
そう思う自分がいる。
「日下部」
名前を呼ばれる。
前の席の男子が振り返る。
「消しゴム貸して」
「ああ」
机の上に放る。
「サンキュ」
何気ない会話。
日下部も、それ以上は何も言わない。
教師が入ってきて授業が始まる。
黒板にチョークが走る音だけが響く。
ノートを取る。
問題を解く。
時間だけが進んでいく。
ふと。
日下部はまた遥を見た。
ペンを持つ手は止まらない。
教師が当てても、短く答える。
間違えもしない。
何も変わらない。
その「何も変わらない」が、妙に引っ掛かる。
屋上の日。
あのあと。
こんなふうに元へ戻れるものだっただろうか。
いや。
戻っているように見えるだけなのか。
答えは出ない。
昼休み。
教室の人数が一気に減る。
購買へ向かう生徒。
中庭へ出る生徒。
教室には数人しか残らない。
日下部は席を立たず、水だけ飲んだ。
向こうでは遥が静かに弁当を開いている。
目も合わない。
話もしない。
前なら。
ここで声をかけていたかもしれない。
「ちゃんと食べろ」
それくらいは言えた。
でも今は違う。
あの廊下で。
「戻る」
そう言った遥の顔が残っている。
踏み込みすぎれば離れる。
離れすぎれば届かない。
その距離が分からない。
「難しいな……」
思わず漏れた声は、自分に向けたものだった。
同じ頃。
別の廊下。
蓮司は窓の外を眺めていた。
校庭では体育の授業が始まっている。
ホイッスルが鳴る。
その音を聞きながら、教室の方へ視線を向けた。
遠くて、中は見えない。
それでも数秒見つめる。
「蓮司」
通りかかった教師に呼ばれる。
「プリント頼む」
「はいはい」
軽く受け取り、歩き出す。
いつもの調子だった。
誰が見ても、変わらない。
その途中。
窓ガラスに映る自分を見て、小さく笑う。
笑った理由は、自分でも口にしない。
放課後。
チャイムが鳴る。
日下部は教室を出る前に、一度だけ後ろを見る。
みぅ 。
遥はまだ席にいた。
鞄を閉じるでもなく、立ち上がるでもない。
ただ窓の外を見ている。
声をかけるか。
迷う。
一歩だけ踏み出しかけて、
止まる。
昨日も迷った。
今日も迷った。
正解は、まだ分からない。
結局、何も言わず教室を出る。
廊下を歩きながら、小さく息を吐いた。
(守るって、何だ)
屋上では迷わなかった。
迷う時間がなかった。
でも今は違う。
日常に戻ったからこそ、
どこまで近づけばいいのか分からない。
その迷いだけが、少しずつ積み重なっていく。
教室では、
遥が静かに窓から目を離した。
誰もいなくなった扉へ視線が向く。
数秒だけ。
それだけで終わる。
自分でも、その理由は考えない。
考えたら、
名前がついてしまう気がした。
だから何事もなかったように鞄を持ち、静かな教室をあとにした。
コメント
1件
めっちゃ分かる……「普通に見えるだけ」って日下部の視点、すごくリアルだった。屋上のあと、日常に戻ったからこそ距離感が分からなくなるもどかしさ、すごく伝わってきた。最後の遥の「理由は考えない」のところも、何かグッときた。静かだけど心に残る話だったわ。