テラーノベル
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「……よし、パスポートは持った。機材の予備バッテリーも、変身用の予備衣装も……リコ、準備は?」 「万全だよ、ハル! 見て、この特注の金ピカ宇宙飛行士スーツ! これを着てNASAの近くでハンバーガーを食うのが今回のメインイベントなんだから!」
『Midnight Gluttony』の世界的ヒットを引っ提げ、二人はプライベートジェット……ではなく、あえて格安航空券を握りしめて世界ツアーへと旅立った。目的は公演だけではない。世界中の「美味しい音」をサンプリングし、究極のアルバムを完成させることだ。
最初の目的地はパリ。二人は18世紀の貴族のような華美な衣装に身を包み、シャンゼリゼ通りを闊歩した。 「ハル、録って! このバゲットの『バリッ』っていう乾燥した音! 10年前のチョコよりずっと乾いてて、歴史の味がする!」 高級レストランのテラス席で、リコがバゲットを豪快に引きちぎる。ハルはその音をリアルタイムで取り込み、エフェクトをかけて「大聖堂の鐘の音」へと変質させた。 周囲のパリジャンたちが眉をひそめる中、二人が奏でる即興のストリートライブに、やがて街中の人々が足を止め、ダンスが始まった。
次に降り立ったのは、喧騒の街。二人は「1930年代のマフィアと情熱的なジャズシンガー」に変身した。 タイムズスクエアのど真ん中、イエローキャブの激しいクラクションを背景に、リコが巨大なホットドッグを頬張る。 「……んぐっ、このケチャップが弾ける音! ニューヨークの心臓の音みたいじゃない?」 「ああ、最悪に騒がしくて、最高にクールだ」 あまりの騒ぎに本物の警察官が駆けつけたが、ハルはその警官が鳴らしたサイレンの音さえもサンプリングし、その場で重厚なダンスミュージックに組み込んだ。警官さえもリズムに乗せてしまう、それが今の二人の魔法だった。
ツアーの最終目的地は、極寒の地。 そこにはもう、着飾る衣装は必要なかった。二人はモコモコの白いシロクマの着ぐるみに身を包み、オーロラが揺れる夜空の下、焚き火で温めたスープを分け合った。
「……ねえ、ハル。世界中を回って、いろんな美味しい音を食べてきたけど」 スープを飲むリコの吐息が、白い霧となって消えていく。 「やっぱり、ハルが隣で聴いててくれないと、ただのノイズになっちゃうんだよね」
ハルは凍える指先で、10年前に彼女が置いていったあのヘッドホンを、リコの耳にかけた。 流れてきたのは、ツアー中にこっそり録り溜めていた、リコの「寝息」や「無意識の鼻歌」をベースにした、世界で一番優しいバラードだった。
「……ハル。あんた、いつの間にこんなの……」 「お前の音は、世界中のどんな名物料理よりも、僕にとっては唯一無二のメインディッシュなんだよ」
オーロラが激しく揺れ、二人の笑い声と、シロクマの毛並みが擦れる音だけが、音のない雪原に響き渡った。
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