「大丈夫ですかね?」
麗が退社してから、椿はもう何度も同じことを口にした。
俺はその都度、「大丈夫だろ」と返す。
が、言い加減、心配になった。
「ってか! 椿のそれはどの立ち位置での心配? 幼馴染として? それとも昔の――」
「――もちろん、幼馴染としてです!」
「そ?」
少し素っ気なく、短く言って、俺は空いている手で彼女の手に触れた。
片手には、鞄と買い物袋を握っている。
椿はパッと俺を見たが、すぐに俯いた。が、手を離そうとはしない。
俺は指を彼女の指に絡め、いわゆる恋人つなぎというやつで、ギュッと握った。
中学生か! と自分に突っ込みたいくらい、浮かれている自分が若干気持ち悪い。
今日の昼、倫太朗が食堂に現れた。
麗に会いに来たのだが、冷たくあしらわれてしまう。
タイミング良くか悪くか、倫太朗は体調を崩して帰るのだが、心配した麗が見舞いに行くと定時少し前に帰ったのだ。
椿は麗に、倫太朗の好きなものなんかを伝えていた。
麗の様子からして、昨夜は随分楽しんだようだが、あくまでも酔った上での一夜の情事だったのだろう。
倫太朗が来て、戸惑っていた。
だが、倫太朗は一夜で終わらせるつもりがなかったらしい。
「だが、意外だったな」
「そうですね……」
「ん? なにが?」
「え?」
顔を見合わせ、首を傾げる。
「俺は、倫太朗がわざわざ麗に会いに来たことを言ったんだけど?」
「私もです。倫太朗が私以外の誰かに甘えてるの、初めて見ました」
「……そこは嫉妬した方がいい?」
「えっ!? あ、いえ! 嫉妬していただくような、色っぽい意味で言ったわけではありません。あくまでも事実として――」
「――うん、わかった」
本気で嫉妬したわけじゃない。
いや、少しはある。
俺は椿に看病されたことがないし、したこともない。
「倫太朗が年上の女性を好きなのは、母親との関係が希薄な状態で育ったからだと思います。だけど、だからこそ、倫太朗は甘え方を知らなくて。年上の女性が好きなのに、年下扱いされるのを嫌うんです。矛盾してますよね」
「そうか? わかる気がするけどな」
「わかりますか?」
「うん。年上の女性に認められたいんじゃないか?」
「認める?」
「母親に認めて欲しいのかね」
「……どうでしょう」
みんな、何かしらの事情やトラウマを抱えている。
同じ母親問題でも、俺は年上好きにはならなかったなぁ……。
人通りが少ないマンションへの道に、街灯に照らされた俺と椿の影が落ちる。二人が雪を踏む音と、カサカサと買い物袋が揺れる音が響く。
今夜はしゃぶしゃぶだ。
「あ!」
唐突に思い出して、俺の声が響いた。
「しゃぶしゃぶの鍋がない」
一人で鍋などしたことはない。
「大丈夫です。以前にもしゃぶしゃぶをしたいと思って、買っておいたんです。すき焼きと兼用ですが」
「あ、そうなの? 良かった」
「はい」
「さすが、俺の奥さんは抜かりないな」
チャンスを逃さず、言った。
麗の言う通りにするのは癪だが、確かにさっさと婚姻届を出さなければ、椿に逃げられてしまうかもしれない。
「婚姻届はいつ――」
「――そのことにつきまして、折り入ってお話があります」
ああ、嫌な予感しかない……。
しゃぶしゃぶを美味しく食べられる内容だといいなと思った。
だが、期待を裏切るのが椿だ。
俺が三枚目の肉をしゃぶしゃぶしている時、彼女が言った。
「結婚は、私が借金を完済してからにしてください」
予感、的中。
「じゃあ、明日にでも完済しよう」
「はい?」
「とりあえず、俺が――」
「――なりません! それだけは、決してなりません!」
時代が百年ほど飛んだ気がするが、構わず続けた。
「結婚したら同じ財布なんだし、気にすること――」
「――気にします! いくら夫婦になるとしても、結婚前の借金については個人の負債として――」
「――そもそも、椿の借金じゃないだろ?」
「いえ。私が相続した以上――」
「――じゃ、結納金ってことで」
「結納金?」
「そ。結婚するにあたって、俺から椿に結納金を渡すから、そこから借金を返せばいい。普通は結納金で家具とか買うんだろうけど、揃ってるし」
「なら、結納金は必要ないじゃないですか」
椿を説得するのは骨が折れそうだ。
だが、彼女が借金を完済するのを待つ気にはなれない。
いや、そもそも借金ていくらあるんだ?
「椿」
「はい」
「借金の残りっていくら?」
「……個人情報です」
「うん?」
「……」
椿が無言で肉をしゃぶしゃぶする。
俺に教える気はないということか。
俺は箸を置いて彼女を見つめた。
「椿」
「はい」
「愛してるよ」
「は――い!?」
それまでの話の流れを全く汲んでいない唐突な愛の言葉に、椿の声がうわずる。が、俺は構わず続ける。
「早く結婚したい」
「……」
「椿はしたくないんだ?」
「そんな……ことは――」
「――あーあ。早く結婚したいなぁ」
芝居がかった口調で言った後、自分はなんて女々しい男だったのかと恥ずかしくなる。
恋人期間もないままにプロポーズして、彼女が渋るといじけるなんて。
「ごめん。焦り過ぎだな」
「いえ、そんな――」
「――結婚の時期はゆっくり話し合っていこう」
「……はい」
大丈夫。
これからずっと一緒にいるのだから。
焦らなくても、大丈夫。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!