テラーノベル
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保管庫から運び出した電子辞書は、店の奥で不思議なくらい場違いだった。
木の机、花ばさみ、伝票、薄緑の湯のみ。その並びに、二十年近く前の型らしい灰色の電子辞書がちょこんと置かれている。表面には細かな傷があり、角は丸く擦れていた。持ち主がずいぶん頻繁に使っていたことだけは分かる。
「電池が切れてる」
と、ジョンナが即座に言った。
「終わり?」
ドゥシャンが肩を落とす。
「終わらせないために、今から工夫するの」
図書室の司書補らしく、ジョンナは落ち着き払っていた。合う電池を探し、端子を磨き、接触の悪いところへ薄紙を挟む。細かな作業を続ける横で、ノイシュタットが感心したように身を乗り出す。
「執念が知的だ」
「黙ってて」
「はい」
花屋には、機械の起動を見守るには似合わない静けさがある。桶の水の音と、店先の風鈴だけが時々鳴る。その真ん中で、ジョンナが電源を押した。
黒い画面に、かすかな線が入り、次いで文字が浮いた。
「ついた……!」
エフチキアが素直に声を弾ませる。ハヤも思わず前へ出た。画面の中には、一般的な辞書機能のほかに、単語帳らしい登録項目がいくつも残っていた。
ジョンナが一つずつ開いていく。
「供花」「土質」「方言」「接客」「避難経路」「告白」「ラッピング」「観光導線」……
「脈絡があるようで、ないようで、やっぱりあるような」
と、オブラスが言う。
「理系の人が本気で町を好きになると、こういう混ざり方をするのかもしれない」
ジョンナの目は、もう完全に資料を読むときのそれだった。
項目を追うごとに、ただの雑多な単語帳ではないことが見えてくる。花屋の供花に使う言い回し。神社の祭礼と人の流れ。山道の勾配。観光客に嘘みたいな話をどう聞かせるか。店へ戻ってもらう導線。避難放送の簡潔な文言。
誰かが、本気で町全体を一つの生き物みたいに考えていた。
ハヤは画面の隅に映る小さな傷を見た。使うたび、ここに親指が触れていたのだろう。知らない誰かの手つきが、急に近く感じられる。
最後の登録メモを開いたとき、店内がしんと静まった。
そこには、短い一文だけが残っていた。
『花は散らない』
ハヤの喉が、ひゅっと鳴った。
「……同じ」
「え?」
とエフチキアが振り向く。
「うちの店名と」
澄江が花の茎をそろえていた手を、そこで止めた。誰もすぐには何も言えない。ノイシュタットでさえ、さすがに軽口を飲み込んでいた。
ハヤの母は、生きていた頃、よく言っていたという。
手から渡した花は、記憶の中では散らない。
その言葉を、澄江が屋号として残した。ハヤは子どもの頃から何度も聞いてきたのに、意味を深く考えたことはなかった。ただ少しきれいすぎる言葉だと思っていた。
なのに今、知らない誰かの電子辞書の中に、同じ言葉がある。
偶然だと片づけるには、胸がざわつきすぎた。
ジョンナが、そっと次の画面を開く。そこには名前欄があり、持ち主情報らしきものが薄く残っていた。
『真柄蒼司』
店の誰も、その名をすぐには口にしなかった。
だが、古い祭りの資料に載っていた名前だと、全員が思い出していた。
「この人が、祭りを作った人?」
エフチキアが小声で言う。
「中心にいた一人、たぶんね」
ジョンナが答える。
ノイシュタットが、ようやく息を吐いた。
「鍵を開けたら、過去が出てきた」
「詩みたいに言わないでください」
ハヤは反射で返したが、声に力がなかった。
電子辞書の画面には、まだ開いていない項目がいくつも並んでいる。知らない名前、知らない事情、知らない思いつき。けれど、その中に花屋の名前だけが先にあった。
それが怖いのか、うれしいのか、ハヤにはまだ分からなかった。
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