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幼馴染の大好きなお兄ちゃんが恋人になった。
それはひどく不思議なことのように思え、また、照れ臭くもあったが、恋人同士としての逢瀬を重ねる度毎に、それらの思いは薄れていった。今の諒は私にとって確かに「男の人」であり、これまで以上に大切で、愛おしい存在となっていた。
あの日以降、将司から連絡が来ることは一切なくなっていた。私はそのことにすっかり安心しきっていたが、そんな中、それは起こった。
その朝、営業部の課長である高田が、総務部の部長のもとへとやって来た。
高田は部長の前に立つと、早速困り果てた様子で訴え始める。この一週間ほど、自分の課で雇っている、派遣スタッフの鈴木幸恵の無断欠勤が続いているというのだ。
高田は声を落として話してはいたが、部長席のすぐ傍に座る私の耳に、その内容は聞くともなしに入ってきた。
「もちろん、本人の携帯にもかけてみました。しかしですね、何度かけても出ないんですよ。留守番電話にメッセージも残しましたけど、まったくなんの反応もなくてですね。もちろん派遣会社にも連絡しましたが、担当者も何も聞いていないと困惑していました。『こちらからも電話してみます』などと言ってはいましたが、それから三日程たった今日現在、彼女はもちろん、派遣会社からもまだ何も連絡がないんです。まぁ、彼女には、そこまで重要な仕事を任せていたわけではありませんでしたから、それについては何とかなったので、ひとまず大丈夫ではあったんですが、ただ、今はちょうど忙しい時期ですし。こんな風に突然、連絡もなしに休まれてしまっては、こちらとしても困ってしまうわけです。今後のこともありますし、鈴木さんの変わりに、別のスタッフを入れて頂くわけにはいきませんか」
「そうですねぇ。基本的な社会人マナーが欠けている方なんでしょうかねぇ。もちろん派遣会社にはこちらからも連絡しますが、次の人をすぐにというわけにはいかないかもしれませんよ。その間、部内でなんとかして仕事は回せそうですか?」
「そこは、なんとか……。そんなわけですので、できる限り早くご対応頂ければ助かります。よろしくお願いします」
高田はもう一度頼み込むように部長に頭を下げて、せかせかとした足取りでフロアから出て行った。
部長はやれやれと言いたげにため息をもらし、私に目を向けた。苦笑を見せながら指示を出す。
「今の話、聞いていたよね?すまないけど、派遣会社の担当者に連絡を入れてもらえるかな。派遣スタッフに関する相談ということで、明日の午前中にでも来てくれるよう、アポを取ってほしいんだ。時間は何時でもいいから」
「分かりました」
私は早速、幸恵が所属する派遣会社に電話をかけた。
翌日、約束の時間に派遣会社の担当者が頭を低くしてやって来た。彼を応接室に通した後、総務部長の元へ行く。
「部長、派遣会社の方がいらっしゃいました」
「ありがとう。高田課長にも連絡してくれる?それと、悪いんだけどお茶もね」
「はい」
部長の指示通り営業部の高田に内線で連絡を入れた後、私は隣の席の同僚に離席することを告げて、給湯室に向かった。茶器の準備を始めた時、背後に人の気配を感じる。その人物を確かめるために振り返ってすぐに驚いた。無断欠勤中であるはずの幸恵が立っていたのだ。
「あなた……。無断欠勤しているそうですね。そのことで今、あなたの派遣会社の方が……」
幸恵は私の言葉を遮る。
「こっちへ来て」
「どうして、私が」
「いいから、こっち!」
幸恵は苛立ちも露わな顔つきで、私の腕をぐいっとつかんだ。そのまま、力任せに私を引っ張って行く。
私自身非力ではないはずだが、いったいどこにそんな力があるのかと思うほど、幸恵の力は強かった。
「離して下さい!それよりも鈴木さん、無断欠勤だなんて、周りに迷惑かけてるってこと、ちゃんと分かっているんですか!」
彼女を咎めている間にも、私は幸恵に引っ張られて行った。いったいどこに向かっているのか、行く先を確かめたくて目を上げた。「非常口」のプレートが目に入ったと思ったら、非常階段の踊り場に向かって幸恵に突き飛ばされた。
「っ……」
壁にぶつかりそうになったのをかろうじて避けて、私は幸恵に向き直った。
彼女は手すりにもたれかかり、じとっとした恨みがましい目つきで私を見ていた。
「大原さんは、幸せそうでいいですよね」
私は眉をひそめた。そんなことを言うためだけに、私をここまで引っ張って来たのかと呆れた。
「そう見えるのなら良かったです」
早く給湯室に戻らなくてはと気が急いたが、どうせなら幸恵を応接室まで連れて行ってしまおうと考えた。そのことを告げようとした時、彼女が言った。
「私、切迫流産で入院していたんですよ」
いったい何を言い出したのかと、私はまじまじと彼女を見た。
すると彼女は、なぜか勝ち誇ったような顔をして告げる。
「将司さんの赤ちゃんよ」
彼女は、私の恋人だった将司の浮気相手だった。何度か彼と寝たことでできた赤ちゃんということなのだろう。しかし、それを聞いたからと言って、特に何も思わない。将司と私の関係はすでに終わっているし、二人と私は無関係なのだ。
「はぁ……。でも、もうあの人と私は何の関係もないので、そうですか、としか……。とりあえず、一緒に応接室に行きましょう。派遣会社の人が来ているので、自分で事情を説明してください」
幸恵は私の言葉を無視して、低いかすれ声でぼそりと言う。
「ダメになっちゃったの。赤ちゃん」
「え……」
私は息を飲んで幸恵を見つめた。彼女の受胎は私を傷つけた結果のものではあるが、その子に罪はない。
「それは残念でしたね……」
声を絞り出すようにして、一般的な慰めの言葉を口にした後、幸恵を促す。
「えぇと、とにかく、応接室へ……」
言いながら彼女に背を向けた時だった。
「大原さんのせいよ!」
突然荒々しい声を上げたかと思うと、幸恵は私の手首をぎゅっと掴み、ぐいっと引っ張った。
彼女のその行動を予測できていなかった私は、バランスを崩した。
灰色の壁、非常灯の白い灯りが目に入った。それとほぼ同時に、幸恵の叫び声が聞こえたような気がした。次の瞬間には、体が宙に浮いたような感覚があり、続いて全身に激しい衝撃を感じた。それを痛いと思う間もなく、私の記憶はそこでぷつりと途絶えてしまった。
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