テラーノベル
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重い瞼を持ち上げて最初に目に飛び込んできたのは、白い天井だった。ぼんやりとした頭でここはどこかと考えた時、すぐ近くで女性の声がした。
「瑞月!」
聞き覚えのある声だが、すぐに思い出せない。誰だったかしらと目を動かしたそこにあったのは、よく知る顔だ。今にも泣き出しそうに歪んでいる。私はかすれた声でつぶやいた。
「栞……?」
「そうよ、あたし。栞よ。あぁ。よかった!」
彼女の声は微かに震えていた。
「……今、何時頃?」
「今?えっと一時過ぎた辺りよ」
「私、階段から落ちたんだっけ……?」
「そう聞いてる。とにかく、すぐに看護師さんを呼ぶね」
栞は私の頭の上に手を伸ばしてナースコールを押した。
それから間もなく看護師がやって来た。私の様子をひと目見て、すぐさま病室を出て行った。
「頭を打ったらしいって聞いてたけど、私が誰か分かるくらいには大丈夫そうだね。ひとまずは安心したよ」
栞は泣き笑いのような顔をしてため息をついた。
「ここは、病院?私、運ばれたの?」
「そうよ。救急車で運ばれたんだって。ここはお兄ちゃんがいる病院だよ」
自分も人から聞いた話だけど、と前置きして栞は話し出す。
「救急車に一緒に乗って来てくれた人は、瑞月と同じ部署の人だったみたいでね。あたしは凛ちゃんから連絡をもらってここに駆け付けたんだけど、その人から聞いたのは、瑞月が非常階段から転落したらしい、っていう話だったのよ。それでね、その時その場にいた女の人が、救急車を呼んだんだって。それで騒ぎになったらしくてね。そこにやって来た彼女の上役らしい人が、その女の人に、そんな所で何をしていたんだって状況を聞いたらしいんだけど、話をしている最中に、瑞月がうっかり足を踏み外したんだって答えたらしいわ。……だけどそれ、ほんとなのかな?」
栞の顔にも声にも、疑いの色がにじんでいた。
「本当のような、本当じゃないような……」
まだ幾分ぼんやりとしている頭で、私はその時のことを思い出しながら、栞の疑問に答えた。
「曖昧だねぇ。まさか、突き落とされたわけじゃないよね。もしそうなら、警察に言わないと」
眉をきっと吊り上げる栞を私は慌ててなだめる。
「それは違う。突き落とされたわけじゃないよ。急に手を引っ張られて、私がバランスを崩して階段から落ちたの。たぶん、私を引き留めようと思ったのかも……」
あの時の幸恵に、私を突き落とそうという意思はなかったと信じたい。
「引き留める?そのために急に手を?じゃあ、故意じゃなくて事故ってこと?嘘、言ってないでしょうね」
「嘘じゃないよ。そこまでの記憶はちゃんとあるから」
断言するように言った時、ドアをノックする音が聞こえた。扉が開き、年配の医師が看護師を伴ってやって来た。穏やかな声で私に声をかける。
「気分はどうですか?」
「体中が所々痛いですけど、なんとか……」
私は横になったまま、首だけを動かして答えた。
「ちょっと失礼しますね」
医師は私の目の真ん前でライトを揺らしたり、瞳の奥を覗き込んだりした。
「今、頭痛だとか吐き気だとかはありますか?」
「いえ、特には……」
「そうですか。頭を打ったみたいで、その後何時間か意識をなくしていたようでね。脳のCT検査の結果では、特に異常は見られませんでしたから、今のところは問題ないと思います。ただね、後から何らかの症状が出てくる場合もありますから、一日、二日くらいは入院して様子を見ましょう。後で整形の医師も説明に来るはずですけど、それによってはもう少し長くなる可能性もあるかもしれません。手続き上の細かいことは、看護師から説明がありますから。それじゃあ、安静にしていてくださいね。お大事に」
「ありがとうございました」
医師が病室を出て行った後、看護師が数枚の書類の束を栞に渡した。
「入院手続きの書類です。書き終わったら、一階の手続き窓口に提出をお願いします。場所は、行っていただければ分かると思いますので」
「分かりました」
看護師が行ってしまってからしばらくして、遠慮がちなノックが聞こえた。
「そうだ、凛ちゃん!待たせてたんだ」
栞は思い出したように声を上げて椅子から立ち上がり、急いでドアを開けに行った。
おずおずと病室に入ってきた凛は、私の顔を見るなり顔を歪ませた。
「瑞月ちゃん……。おばさんと連絡が取れないからって、私の番号が二番目の緊急連絡先になってるっていうんで、あなたの会社から電話がかかって来た時は、心臓が止まるかと思ったわ。それで、大丈夫なの?私のこと、ちゃんと分かる?」
「分かるよ、はっきりと。凛ちゃん、ごめんね。心配かけて……。あのね、頭の方は大丈夫みたいだって。ただ念のため、少し入院しなさいって言われたの」
「そうなのね。おばさんにも連絡しておいたからね。間もなく着くと思うわ」
「やっぱり、連絡したんだね……」
「当たり前でしょ!」
凛が呆れ顔を見せた時、ガラリと開いたドアの向こうに、血相を変えた母の顔が見えた。
母はベッドの傍までやって来て、私をじっと見つめた。今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「瑞月……」
「お母さん……」
「大丈夫なの?いったいどうしてこんなことに……」
「心配かけてごめんなさい……」
「本当よ。こんなことになるんなら、家から離すんじゃなかったわ。凛ちゃんと栞ちゃんにも迷惑かけて。二人ともごめんなさいね。本当にありがとう」
母に頭を下げられて、栞と凛は困ったように顔を見合わせた。
栞が母をなだめるかのように、その背を撫でる。
「おばさん、そんな水臭いこと言わないでよ。あたしと瑞月は、姉妹みたいなものなんだから。それにね。ここはお兄ちゃんがいる病院なの。だからっていうわけじゃないけど、安心して。ね?」
「栞ちゃんの言う通りだよ。遠慮なく、うちらに頼ってくれていいんだよ」
栞と凛に言葉をかけられて、母の表情が少しだけ和らいだ。
私に変わって栞が母に、医師から告げられた内容を伝える。
「あのね、おばさん。さっき瑞月を見てくれた先生が、一日か二日は入院だって言ってたの。でも、延びる可能性もあるみたいなことも言ってたわ」
「栞ちゃん、ありがとう。でもその方が安心だわ。あぁ、そうすると、色々と必要よね」
「ここの病院、入院セットっていうのがあるのよ。ひとまずはそれを買った方が早いと思うんだけど、どうかな」
栞の提案に母は目を見開いた。
「まぁ、そんな便利なものがあるの?売店で売ってるのかしら」
「うん。たぶんね。あたし、一緒に行くよ。ところで、おばさんは今夜どうするの?これからまた帰るのは大変でしょ?」
「ひとまずは、瑞月の部屋に泊まろうと思ってるわ。栞ちゃん、売店はおばさん一人で行けるから大丈夫よ。二人とも、もう帰ってくれてもいいのよ。忙しいのに来てくれたのよね?本当にありがとう。落ち着いたら改めてお礼させてちょうだいね」
母が言い終えたのとほぼ同時に、ドアがいきなり開けられた。
「瑞月!目が覚めたって聞いたんだけど」
抑えた声で言いながら、諒が白衣の裾をなびかせて入って来た。
コメント
1件
本当に良かった〜。 切迫流産は気の毒だったけれど、それ瑞月のせいにされるのは違うと思う。
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