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「……あの、僕、お邪魔でしたよね。
すみません。そろそろ回診の時間なので、病棟へ戻ります」
沢井くんは少し青ざめた顔で慌てて立ち上がった。
「そうそう、君はお邪魔虫。
さっさと回診に行きなさい。ひたすら勉強に励みなさい。シッシッ」
直江先生は沢井くんを追い払うように手を振る。
「直江先生。あなたは黙ってください」
私は直江先生を睨みつけたが、沢井くんは逃げるように医局を出ていってしまった。
「だってぇ。女の子は大好きだけど、男は大嫌いなの。
あれだけ脅しておけば、大丈夫でしょう?」
扉が閉まるのを見届けると、直江先生は鼻で小さく笑った。
「……」
もとはと言えば、あなたのせいじゃないの。
「私もこれから検査に入るので失礼します。
あっ、麗香は明後日まで東京へ出張ですよ。
では――」
直江先生と目を合わせないまま軽く頭を下げ、沢井くんを追うように扉へ手を伸ばした、その時。
「待ってよ、亜紀ちゃん。
……じゃなくて、亜紀さん」
彼は扉へ伸ばした私の手を掴み、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。
「なっ、何なんですか! いい加減にしてください」
「いい加減って、俺まだ何もしてないよ?」
「……私、結婚してるの。
主人も同じ職場にいるの。
あの夜のことは主人に知られたくない。
忘れたいの。
……だからお願い。私に構わないで」
私は掴まれた手へ力を込め、真っ直ぐ彼を見つめた。
「ご主人のことは知ってるよ。
心臓外科の宮坂遼一。
腕の良さも噂で聞いてる。
せっかくだから、この医局へ来る前に挨拶してきたよ。
これからお世話になる先輩だからねぇ。
……色々とさ」
そう言うと、彼は不敵な笑みを浮かべ、私の行く手を塞ぐように扉へ背中を預けた。
「主人に挨拶をしてきた……?
まさか、変なこと言ってないわよね!?」
思わず声が裏返る。
「もちろん、何も言ってないよ。
ただ挨拶をしただけ。
亜紀さんを困らせたいわけじゃない。
あなたには嫌われたくないからね」
彼は張り詰めた表情の私を見つめ、眉尻を下げて穏やかに答えた。
「……何も言ってないなら、それでいいです。
そこをどいてください」
私は大きく深呼吸をひとつしてから、彼を真っ直ぐ見据えた。
「……嫌だ。
どかない」
「はっ?
……さっきから、あなたは何を考えてるの?」
「亜紀さんは、俺が嫌い?」
「……好きとか嫌いとか、そんな話をしてるんじゃないわ。
私には主人がいるって言ってるの」
一刻も早く、この場を離れたい。
扉の向こうを気にしながら、私は声を潜めて言った。
「結婚してるなんて……
そんなの、亜紀さんに関係あるの?」
直江先生は私を真っ直ぐ見つめ、静かに呟いた。
心の中を――
精神の奥底まで覗き込まれそうな眼差し。
……どういう意味なの?
ふと、今泉さんの顔が脳裏をよぎる。
彼の視線に囚われたまま、心臓が不快なほど大きく脈を打ち始めた。
「あのパーティーに出席した時点で、配偶者への貞操観念なんて、もう消えてるんだよ。
亜紀さんだって刺激を求めて行ったんだろ?
あの乱交シーンを見て、亜紀さんの中の『女』が疼いたはずだ。
あの場所にいる間、旦那さんの存在なんて消えてただろ?」
「そっ……そんなこと……」
「ないって、本当に言い切れる?
……いいんだよ。
別に亜紀さんを責めてるわけじゃないからさ」
“言い訳を聞くまでもない”とでも言うように、彼は掴んでいた手をふっと離し、満面の笑みを浮かべた。
「あのパーティーのことは……
中であんなことが行われてるなんて、本当に知らなかったのよ……」
解放された手首を反対の手でさすりながら、苦し紛れに言葉を絞り出す。
「うん。
内容までは知らなかったみたいだね。
でも、麗香は承知の上で亜紀さんを連れ出した。
あなたに見せたかったからだよ。
今の亜紀さんには必要だと思ったから。
麗香は興味本位で、幸せな夫婦を壊すようなことはしない。
――絶対に。
亜紀さんだって、そう思うだろ?」
そう言って自信ありげな笑みを浮かべ、彼は私の返事を待った。
「……」
心を裸にされたような屈辱に襲われ、私は思わず口を噤んだ。
夫に相手にされない淋しさ。
虚しさ――。
忘れていた心の高揚。
そして、封印していた身体の疼き。
あの頃の私は、仕事でしか自分の存在価値を見いだせなかった。
白衣を脱げば、ため息ばかりついている、つまらない女だった。
――あの人と出会うまでは。
「……そうかもしれませんね。でも、今の現状が意に満たないものだったとしても、私はあなたに興味を持つことはありません。
分かったら、そこをどいてください。患者が待っています」
私は強気な笑みを浮かべ、彼を押しのけるように再び扉へ手を掛けた。
「予想外にきついこと言うんだね。
……亜紀さん。
あの夜とは、どこか雰囲気が変わった」
私を見下ろし、彼は苦笑を漏らす。
すると意外にも、彼はあっさりと扉から身体を離した。
私はほっと小さく息をつき、そのまま勢いよく扉を開けようと力を込めた。
だが――
「ガタンッ」
大きな音を立て、扉は途中で止まった。
「えっ……!?」
驚いて視線を落とすと、彼の足先が扉を押さえている。
露骨に嫌そうな顔で彼を睨み上げようとした、その瞬間。
「そうだ……
匂いが違うんだ。
この前は、こんな熟した香りはしなかったのに……美味しそう」
耳朶をかすめる、生温かな吐息。
「キャッ!」
悲鳴にも似た掠れ声を漏らし、私は身をよじって彼から逃れ、すぐ横の壁へ背中を押しつけた。
愕然としたまま、彼を見つめる。
コメント
1件
第89話、一気に空気が変わる緊迫感がすごかったです。直江先生の「結婚してるなんて、そんなの亜紀さんに関係あるの?」の台詞、核心を突いてくるようでぞっとしました。匂いが違う、という最後の仕掛けも、彼の執着の深さを感じさせますね。亜紀さんの心の揺れと、それでも抗おうとする強さが丁寧に描かれていて、次が気になって仕方ないです。
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