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その日の花屋は、午前中から小さな戦場になった。
仲直り用の鉢物八件。見舞い用の花束二件。地方紙の記事を見た町外の客が“あの甘い名札も見たい”と立ち寄り、焼き菓子店との行き来も増える。店先は華やかなのに、裏では伝票と水と土が飛び交っていた。
ハヤは帳場と作業台を往復し、鉢の札を書き、リボンの色を決め、次の配達表を直していた。忙しいほど余計なことを考えなくて済む。そう思っていたのに、頭の隅ではずっと、旧放送小屋と白群の契約書が居座っている。
「ハヤさん、この鉢、どこに置きます?」
エフチキアが聞く。
「窓際の下。午後の直射が当たらないところ」
「こっち?」
「もう少し奥――」
言いながら振り向いた拍子に、足元のジョウロへ踵が当たった。わずかに体勢が崩れる。正面には、移し替え前の大きな鉢がある。陶器の縁まで土が入った、かなり重い鉢だ。
倒したら終わる。
そう思った瞬間、反射的に両手を伸ばした。
けれど、自分の手より先に、横から別の腕が入った。
鉢の底を片手で支え、もう片方でハヤの肘を軽く押し戻す。土はこぼれない。陶器もぶつからない。止まるべきところで、きれいに止まった。
「危ない」
ノイシュタットだった。
いつものような余計な比喩も、格好をつけた言い回しもなかった。息を整える暇もないまま、ただ低くそれだけ言う。鉢の重みを受けながら、ハヤが完全に体勢を戻すまで、手を離さない。
「……すみません」
「いや。床が濡れてた」
それだけ言って、彼は鉢をそっと作業台へ戻した。離す時の速度まで、ひどく丁寧だった。急に放せば縁が鳴る。ゆっくり置けば土が沈む。そのちょうど間のところを、最初から知っていたみたいに選ぶ。
エフチキアが目を丸くする。
「今の、すごい」
「僕は重い物を持てる男でもある」
数秒遅れてから、ようやくいつもの調子が戻ってきた。
「今さら言わないでください」
ハヤは言ったが、声はわずかに弱い。
ノイシュタットは、何もなかった顔で伝票を拾い上げる。
「次、どれを包む」
「え」
「手が空いているなら使ってくれ。今日は君の顔が、三回ぐらい別の場所に行っている」
図星だった。
ハヤは言い返せず、代わりに包み紙を一枚渡した。
ノイシュタットは不器用ではないが、器用を自慢するほどでもない手つきで、鉢の根元に薄紙を巻いていく。無駄口は少ない。いつもなら何か一言足すのに、今は足さない。
その静けさが、どうにも気になった。
「……東京でも、こういうのやってたんですか」
ハヤが聞く。
「鉢を受け止める仕事?」
「違います」
「そうだろうね」
彼は紙の端を折り込みながら、かすかに笑う。
「向こうでは、人が落としたものを、もう少し派手なやり方で拾っていた」
「派手なやり方」
「広告だから。言い方を盛って、綺麗に見せて、傷の位置をうやむやにする」
そこまで言って、指が一瞬止まる。
「でも、あまり上手くなかった」
ハヤはその横顔を見た。軽く笑っているようで、目だけが笑っていない。町の噂になっている“東京での失敗”の輪郭を、初めてほんの少しだけ見た気がした。
「私は」
つい、声が出る。
「笑いません」
ノイシュタットは、折っていた紙をきっちり整えてから顔を上げた。
「知ってる」
その二文字が、まっすぐ胸へ入る。
客が来て、会話はそこで切れた。
ハヤは表へ出て注文を受け、戻ると、さっきの鉢に小さな札が添えられていた。ノイシュタットの字で、《言いそびれたことは、土より重くなる前に》と書いてある。
「何ですか、これ」
「仲直り用」
「重いです」
「でも効く」
アンネロスが横から見て吹き出した。
「相変わらず面倒な男ね」
「褒め言葉として受け取る」
昼過ぎ、配達用の荷をまとめていると、ハヤは自分がさっきより落ち着いて動けていることに気づいた。白群の書類も、旧放送小屋のことも、消えたわけではない。けれど、鉢を受け止められた瞬間から、足元の揺れがわずかに収まっていた。
閉店前、店の裏口で短い風が通る。ハヤが空の鉢を積み直していると、ノイシュタットがさりげなく一番重いものを自分の側へ寄せた。
「それは私が」
「今日は僕のほうが少し暇だ」
「嘘です。全然暇じゃなかったでしょう」
「では、僕のほうが少し気づいた、に訂正しよう」
気づいた。
その言葉に、ハヤは返事を失う。
前に出るとか、名前を呼ばれるとか、店を残すとか。そういう大きな話の手前で、誰かが鉢の重さや、濡れた床や、手を離す速さに気づく。それだけのことが、思った以上に心へ残る。
店先の西日が細くなり、白いリンドウの縁を照らした。
ハヤはエプロンの裾を整え、さっきの札をもう一度見た。言いそびれたことは、土より重くなる前に。
そんなふうに書けるくせに、自分のことになると回りくどい。
そう思うと、少し可笑しくなる。
けれど、その可笑しさの下で、別の感覚も芽を出していた。
この人は、目立つ言葉より先に、落ちる物へ手を出す。
その事実を知ってしまったら、前と同じ距離ではいられない。
閉店の札を返しながら、ハヤは胸の奥で小さく息を吐いた。
次に揺れるのは、鉢ではなく、自分のほうかもしれない。