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翌朝の霧守町は、山から下りてきた白い靄で坂道の輪郭が少しやわらかく見えていた。花屋「花は散らない」のシャッターを半分だけ開けると、湿った空気の中へ、切り戻した葉の青い匂いが流れ出す。
ハヤがバケツの水を替えているあいだに、エフチキアはもう店先の札を並べ替えていた。昨日、仲直り用の鉢を買っていった客の名前を小さな手帳で確かめ、置く位置を迷わず決めていく。
「それ、毎日書いてるんですか」
ハヤが聞く。
エフチキアは、手帳を胸の前でひらひら振った。
「はい。昨日は“赤い花は苦手だけど、葉が多いのは好き”って言ってたお客さんがいました。たぶん次は、こっちの白と緑を勧めたら話が早いです」
開いて見せてもらうと、客の名前と顔立ちの特徴、その人が立ち止まった棚、迷った色、連れの有無まで、細かい字でびっしり書いてある。派手さのない記録だった。けれど、同じ記号がいくつも積み重なっていて、一日だけの覚え書きではないと分かる。
「そんなに覚えて、疲れませんか」
「忘れるほうがもったいないです」
言ってから、エフチキアは奥の棚へ走った。
店に入ってきた初老の男性へ、迷わず細い包みを持っていく。
「先週、お孫さんの入学祝いに黄色を選んだ方ですよね。今日は落ち着いたほうがいいですか」
男性は驚いて笑い、帽子を脱いだ。
「覚えてたのかい」
「はい。この前、帰り際に“次は妻に買う”って言ってました」
その一言で、男性の背中の力が少し抜ける。彼は白いリンドウと小さな葉物を選び、予定より二輪多く買っていった。
昼過ぎ、オブラスが帳場で数字を見ながら低く言った。
「昨日から客単価が上がっている」
「昨日の騒ぎの余波じゃなくて?」
ハヤが聞く。
「それだけでは続かない。続く数字には、理由がある」
彼の視線は、さっき閉じられたばかりの小さな手帳へ向いていた。
ハヤは、店先で次の客へ笑いかけるエフチキアを見た。目立つことはしていない。ただ昨日聞いたことを、今日も明日も、少しずつ忘れないようにしているだけだ。
その地味さが、店の空気そのものを変え始めていた。
夕方、閉店準備の最中に、エフチキアは新しい欄を作った。
《次にすすめる花》《言いそびれたこと》《家に帰る道》
「最後の欄、必要?」
ハヤが覗き込む。
エフチキアは笑って肩をすくめた。
「ありますよ。帰り道で思い出す人、けっこう多いですから」
ハヤはその字を見つめた。
続ける人の手帳には、売上だけでなく、人がどこで立ち止まって、どこへ戻っていくのかまで書いてある。
店の未来は、急に変わるのではないのかもしれない。
こういう細い線が、毎日ひとつずつ足されていくことでしか、たぶん変わらない。
その夜、帳場の横に手帳を置いてから、ハヤはしばらく目を離せなかった。
続ける人には、いつか追いつけない日が来る。
そう思ったとき、不思議と焦りより先に、胸が熱くなった。