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#命
ruruha
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#学園
要 九十九
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星キラリ

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眠狂四郎
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朝、花は目を覚ました瞬間から、学校へ行きたくないと思っていた。
布団の中で目を閉じたまま、今日一日のことを考える。
教室に入る。自分の席に座る。周りの声を聞く。誰かが笑えば、自分のことではないかと気にする。何かを頼まれたら断れず、断らなくても嫌な顔をされる。何も言わなければ、何を考えているのか分からないと言われる。
どう振る舞えばいいのか、もう分からなかった。
正解がないのなら、せめて間違えないようにしたかった。けれど、何をしても間違いにされる場所では、それすら難しかった。
「花、朝ごはんできたで」
階下から祖父の声がした。
花は返事をするまでに少し時間がかかった。
「……今、行く」
制服に着替え、鏡の前に立つ。目の下に薄く影ができていた。髪を整えても、顔を洗っても、疲れた表情は消えなかった。
誰かに心配されるのは嫌だった。
心配されたら、何かあったのかと聞かれる。聞かれたら、何もないと答える。何もないと言えば、嘘をついているような気持ちになる。それでも本当のことを話すよりは、ずっとましだった。
食卓には、ご飯と味噌汁、それから卵焼きが並んでいた。
祖父はいつもと同じ場所に座り、湯気の立つ味噌汁を飲んでいる。
「今日は卵焼き、ちょっと甘めにしてみたんや」
「……うん」
「口に合わんかったら、無理して食べんでええからな」
花は卵焼きを見つめた。
祖父は、花が最近あまり食べられていないことに気づいている。だから、食べやすいように味を変えてくれたのだろう。
それが分かるからこそ、苦しかった。
おじいちゃんは何も悪くない。
自分のために朝早く起きて、ご飯を用意してくれる。お弁当も作ってくれる。帰れば家にいてくれる。
それなのに、自分は学校で起きていることを話せない。
心配をかけたくないから話さないのに、話さないことで、祖父を何も知らないままにしている。
どちらを選んでも、申し訳なかった。
「……おじいちゃん」
「ん?」
「私って、そんなに変かな」
祖父の箸が止まった。
花は、自分でもなぜそんなことを聞いたのか分からなかった。
変だと言われたわけではない。誰かに直接、そう尋ねられたわけでもない。
けれど、教室での扱いを毎日受けていると、いつの間にか、自分のほうに原因があるのではないかと思うようになっていた。
みんなが普通にできることを、自分だけがうまくできない。
みんなが何でもない顔で笑っているとき、自分だけは、その笑い声の意味を考えている。
同じ場所にいるのに、自分だけ違う世界にいるようだった。
祖父は少し考えてから答えた。
「花は花やろ」
「……それ、答えになってないよ」
「せやな」
祖父は否定も肯定もせず、困ったように眉を下げた。
「じいちゃんには、花が変やとは思えへんけどな」
その言葉を、花は素直に受け取れなかった。
祖父は自分を嫌いにならない。だから、そう言ってくれるのだろう。
学校の人たちが見ている自分と、祖父が見ている自分は違う。
どちらが本当なのか、花には分からなかった。
「……ごちそうさま」
花は、卵焼きを一切れ残したまま食卓を離れた。
「花」
玄関で靴を履いていると、祖父に呼び止められた。
「しんどなったら、無理せんで帰ってきたらええからな」
「うん」
「学校におることだけが、全部やないんやから」
花はうなずいた。
けれど、学校を休めば、次の日に何を言われるか分からない。帰ってくれば、どうして帰ってきたのか説明しなければならない。説明できなければ、心配をかける。
どこにも逃げ道がなかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
祖父の声を背中に受けながら、花は家を出た。
その言葉が、帰ってくる場所のある人間に向けられたものだということを、花はまだ十分に理解できていなかった。
学校では、文化祭の準備が続いていた。
教室の後ろには段ボールが積まれ、黒い画用紙や絵の具が机の上に広がっている。誰かがふざけてお化けの絵を描き、周りが笑っていた。
花が教室に入ると、近くにいた女子がこちらを見た。
「花、今日これ切っといてくれへん?」
机の上に、細長い紙が何枚も置かれた。
「……うん」
「できたら、あっちの箱に入れといてな」
「分かった」
女子はそれだけ言うと、別の友達のところへ戻っていった。
花は席に座り、紙を切り始めた。
頼まれたことをやっていれば、余計なことを言われずに済むかもしれない。役に立たないと思われなければ、少しはましになるかもしれない。
そんな期待をしている自分が、嫌だった。
どれだけ働いても、仲間に入れてもらえるわけではない。頼まれた仕事を終えても、ありがとうと言われるとは限らない。
それでも、何もしないでいるよりはよかった。
少なくとも、何かをしている間は、自分がここにいる理由を作れる気がした。
「うわ、これめっちゃ歪んでるやん」
背後から声がした。
花の手が止まる。
切った紙の一枚を、男子がつまみ上げていた。
「花が切ったん?」
「……うん」
「なんでこんなガタガタなん。定規使った?」
花は紙を見た。
線に沿って切ったつもりだった。けれど、端が少し曲がっている。
「ごめん。やり直すね」
「いや、もうええわ。これ使われへんやろ」
男子は紙を机に放り、近くの友達に見せた。
「見てみ、これ。何に使うつもりやったんやろ」
「知らんけど、逆にすごいやん」
笑い声が上がった。
花は顔を上げなかった。
自分が切った紙が悪かったのなら、やり直せばいい。そう思おうとした。
けれど、紙を見せて笑う必要はあったのだろうか。
使えないと伝えるだけでは、足りなかったのだろうか。
考え始めると、また自分の何が悪かったのかを探してしまう。
手元に残った紙を、花は一枚ずつ切り直した。
指先が少し震えていた。
「なあ、花ってさ」
別の女子が、友達と話しながらこちらを見た。
「何言われても謝るよな」
「分かる。こっちが悪いみたいになるから、ちょっと困るねん」
「別に怒ってへんのに、すぐごめんって言うし」
花は、紙を切る手を止めた。
「……ごめん」
言った瞬間、女子が顔をしかめた。
「ほら、またやん」
周りが笑った。
花は、もう何も言えなかった。
謝らなければ、反省していないと思われる。
謝れば、謝られるほうが悪いように感じると言われる。
黙っていれば、感じが悪いと思われる。
笑えば、何がおかしいのかと言われるかもしれない。
どうすればよかったのか、誰も教えてくれなかった。
ただ、花の失敗だけは、みんながよく知っていた。
昼休み、花は机の中から弁当を取り出した。
祖父が作ってくれた卵焼きが入っていた。朝食べたものと同じ、少し甘めの卵焼きだった。
蓋を開けると、いつもと変わらない弁当が目に入る。
祖父が自分のために用意してくれたもの。
それを思うと、食べなければいけないと思った。
一口食べた。
味はちゃんと分かった。甘くて、柔らかかった。
けれど、二口目を口に運ぼうとすると、喉の奥が詰まったようになった。
花は箸を置いた。
近くの席では、数人が楽しそうに昼食を食べている。
「今日、帰りに寄っていかへん?」
「ええやん。どこ行く?」
「駅前の店。新しいの出たらしいで」
「行こ行こ」
その会話に、花の名前は出てこない。
誘われないことには、もう慣れていた。
ただ、みんなが自分の知らない約束を増やしていくたびに、自分だけが時間の外に置き去りにされているような気持ちになった。
学校が終われば帰る。家に帰れば、祖父がいる。
それだけの毎日だった。
それだけで十分だと思えたら、もっと楽だったのかもしれない。
花は弁当の蓋を閉じた。
祖父に、また残してしまったと伝えなければならない。
そう考えると、胸の奥が重くなった。
食べられないことまで、自分の悪いところになっていく。
何かをされるたびに、自分が悪いのではないかと考える。
何もされていない時間にも、いつか何かが起きるのではないかと身構える。
気を抜くことができない。
笑い声が聞こえるたびに、顔を上げる。
誰かが近づくと、何かを頼まれるのではないかと考える。
名前を呼ばれると、今度は何を間違えたのだろうと思う。
誰にも何も言われていない時間さえ、安心できる時間にはならなかった。
花は弁当を鞄にしまった。
午後の授業が始まるまで、あと少しだった。
放課後、花は担任に呼び止められた。
「花、ちょっとええかな」
教室には、まだ何人かの生徒が残っていた。文化祭の準備をしている声が聞こえる。
花は先生の机の前に立った。
「最近、元気ないように見えるんやけど」
「……そうですか」
「授業中もしんどそうやし、昼ご飯もあんまり食べてへんみたいやな」
花の心臓が跳ねた。
見られていた。
それなのに、誰も何も言わなかった。
いや、先生は今、言ってくれている。
気づいてくれたのかもしれない。
そう思った途端、どうすればいいのか分からなくなった。
ここで本当のことを話したら、何かが変わるのだろうか。
先生が話を聞いてくれたら、明日から教室での扱いが変わるのだろうか。
誰かが注意されて、今までのことがなくなるのだろうか。
そんなことを考えている自分が、ひどく浅ましく思えた。
助けてほしい。
でも、助けてほしいと言ったあとに、何も変わらなかったらどうしよう。
話したことで、もっとひどくなったらどうしよう。
自分が告げ口をしたと思われたら。
みんなに知られたら。
先生がいないところで、今まで以上に笑われたら。
花は制服の裾を握った。
「何か困ってることがあるんやったら、先生に話してみてな。ひとりで抱え込まんでええから」
先生の声は穏やかだった。
花は、その言葉を聞きながら、うなずくことしかできなかった。
「……はい」
「ほんまに、無理せんといてな」
「はい。ありがとうございます」
花は頭を下げた。
先生は、少し安心したように笑った。
その顔を見て、花はますます何も言えなくなった。
先生は、自分が話を聞いてもらえたと思っているのかもしれない。
花は何も話していないのに。
心配してもらったのに、その気持ちに応えられなかった。
また、自分が悪いような気がした。
教室を出ると、廊下の向こうから生徒たちの声が聞こえた。
「花、先生に何言われてたん?」
「知らん。なんか最近、あいつ呼ばれがちちゃう?」
「またなんかやらかしたん?」
花は足を止めた。
こちらを見ているのかどうか、分からなかった。
自分のことを話しているのかどうかも、分からなかった。
けれど、確かめることはできなかった。
花はそのまま歩き出した。
先生に心配されたことを、誰にも知られたくなかった。
心配されるような自分であることも、知られたくなかった。
本当は、誰かに気づいてほしかった。
何も言わなくても、もう大丈夫ではないと分かってほしかった。
でも、気づかれたあとに何をされるのかが怖かった。
花は、自分の中にある二つの気持ちを、どうすることもできなかった。
帰宅したのは、いつもより少し遅い時間だった。
祖父は居間で新聞を読んでいたが、花が玄関に入る音を聞くと顔を上げた。
「おかえり」
「……ただいま」
「遅かったな」
「先生に呼ばれてたから」
祖父は新聞を畳んだ。
「なんかあったんか?」
花は一瞬、答えに詰まった。
今日、先生に言われたことを思い出す。
ひとりで抱え込まなくていい。
無理をしなくていい。
困っているなら話してほしい。
どれも、花のために向けられた言葉だった。
祖父も、同じように自分を心配してくれている。
今なら、少しだけ話せるかもしれない。
「……あのね」
祖父は何も言わず、花を見ていた。
急かさない。
続きを待ってくれている。
花は唇を開いた。
「私、学校で……」
そこで、言葉が止まった。
何から話せばいいのだろう。
最初に嫌なことをされた日のことか。
みんなに笑われたことか。
自分が何をしても、間違いにされることか。
誰も自分の隣に座らないことか。
何もされていない時間にも、誰かが自分を見ているような気がすることか。
話そうとすればするほど、全部がつながってしまった。
一つだけなら我慢できた。
二つ目も、三つ目も、そのたびに忘れようとしてきた。
けれど、忘れられなかったものが、毎日の中に積み重なっている。
それを全部言葉にしたら、自分がどれほど惨めなのか、祖父にも知られてしまう気がした。
花は目を伏せた。
「……何でもない」
祖父の表情が、わずかに曇った。
「花」
「ほんまに、何でもないから」
自分の声が少し強くなったことに気づき、花は慌てて言い直した。
「ごめん。……何でもないよ」
祖父は、すぐには返事をしなかった。
花は、その沈黙に耐えられず、自分の部屋へ行こうとした。
そのとき、祖父が口を開いた。
「花、ちょっと座り」
花は足を止めた。
怒られるのだろうか。
心配をかけたことを責められるのだろうか。
そんなことを考えながら、花は祖父の向かいに座った。
祖父はしばらく花を見ていた。
何かを尋ねようとして、やめたようにも見えた。
そして、ゆっくりと言った。
「じいちゃん、昔から口下手やろ」
花は顔を上げた。
「……うん」
「花が何を考えとるんか、分からんこともようある。何て声かけたらええんか、分からんときもある」
祖父は自分の手を見下ろした。
「せやけどな、花が何も言わへんからって、何もないとは思うてへんで」
花の喉が、小さく動いた。
「……どうして?」
「どうしてって?」
「どうして、そう思うの?」
祖父は少し考えた。
「ずっと一緒におるからやろか」
それだけだった。
特別な理由も、立派な説明もなかった。
祖父は花の心をすべて分かっているわけではない。学校で何が起きているのかも知らない。
それでも、何もないと答える花の顔を見て、本当に何もないとは思わないでいてくれた。
花は、そのことがうれしかった。
同時に、苦しかった。
自分のことを気にかけてくれる人がいる。
帰ってきたら声をかけてくれる人がいる。
自分が食べられなかった弁当を見ても、怒らずに心配してくれる人がいる。
それなのに、学校へ行くのが怖い。
朝が来るのが嫌だ。
もう何も考えたくないと思うことがある。
そんな自分を、祖父はどう思うだろう。
「……おじいちゃん」
「ん?」
「私が、学校に行きたくないって言ったら……どうする?」
祖父はすぐには答えなかった。
花は、後悔した。
聞かなければよかった。
こんなことを言えば、祖父を困らせてしまう。
学校には行ったほうがいいと言われるかもしれない。みんな頑張っているのだから、花も頑張れと言われるかもしれない。
そうしたら、自分はまた、何も言わなかったことにするしかない。
祖父は花から目をそらさず、ゆっくり答えた。
「なんで行きたないんか、聞くと思うわ」
「……それで?」
「花の話を聞く」
「……学校には行かなくていいの?」
祖父の眉が、少しだけ動いた。
「行くか行かへんかは、そのあと考えたらええやろ」
花は黙った。
学校に行くかどうかを、今すぐ決めなくてもいい。
そんなふうに言われたことは、なかった。
学校は行くものだと思っていた。
嫌でも、つらくても、みんなと同じように通うものだと思っていた。
行きたくないと思うこと自体が、悪いことなのだと思っていた。
「……でも、みんなは行ってるよ」
「せやな」
「私だけ行かなかったら、変に思われるよ」
「そう思う人もおるかもしれんな」
祖父は、簡単に否定しなかった。
みんな気にしないと言ってくれれば、少しは安心できたかもしれない。
けれど、祖父はそんな約束をしなかった。
世の中には、花が何をしても何かを言う人がいる。
それを祖父も知っているのかもしれなかった。
「……私が悪いのかな」
花の声は、自分でも驚くほど小さかった。
祖父は目を見開いた。
花は、すぐに後悔した。
こんなことを聞いても、答えられるはずがない。
学校のことを何も知らない祖父に、何を求めているのだろう。
「ごめん。変なこと聞いて……」
「花」
祖父の声が、いつもより少し強くなった。
花は顔を上げた。
「まだ、何があったんか聞けてへん。せやから、何が悪いんかなんて、今は分からへん」
祖父は言葉を探すように、ゆっくり続けた。
「せやけどな、花がつらい思いしとるんやったら、それをひとりで我慢せなあかん理由にはならへん」
花の目が熱くなった。
泣きたくなかった。
泣いたら、何かを話さなければならなくなる。
泣いたら、祖父に心配をかけてしまう。
だから、花は必死に目を伏せた。
祖父は、それ以上何も聞かなかった。
ただ、花が落ち着くまで、向かいに座っていた。
その夜、花はなかなか眠れなかった。
祖父の言葉が、頭の中に残っていた。
つらい思いをしているなら、ひとりで我慢しなくていい。
そう言われても、どうすればいいのかは分からなかった。
話せば、何かが変わるかもしれない。
でも、変わらないかもしれない。
学校に行かなければ、明日、誰かに何かを言われるかもしれない。
行けば、また同じことが起きるかもしれない。
どちらを選んでも、怖かった。
花は布団の中で膝を抱えた。
学校へ行きたくない。
その気持ちは、今日だけのものではなかった。
朝起きるたびに、少しずつ大きくなっていた。
それでも、明日になれば制服を着て、鞄を持って、玄関を出るのだろう。
祖父に心配をかけないために。
これ以上、迷惑をかけないために。
自分が我慢すれば済むのなら、我慢すればいいと思っていた。
けれど、我慢していることを誰にも知られないまま、ずっと続けていくことはできるのだろうか。
花は、枕元に置いた時計を見た。
針は、少しずつ進んでいる。
明日が近づいてくる。
そのことが、怖かった。
翌朝、花は祖父より先に起きた。
台所へ行くと、まだ誰もいなかった。
窓の外は薄暗く、冷蔵庫の音だけが静かに響いている。
花は水を一杯飲んだ。
喉は渇いていたはずなのに、飲み終わっても何かが詰まっているような感じがした。
食卓の椅子を引き、そこに座る。
学校へ行きたくない。
昨日、祖父に口にした言葉が、頭の中で繰り返された。
もし、今日も行きたくないと言ったら。
祖父は話を聞くと言ってくれた。
でも、花にはまだ、話せることが何もなかった。
何もないのではない。
ありすぎて、どこから話せばいいのか分からないのだ。
花は両手を膝の上で握りしめた。
そのとき、廊下から祖父の足音がした。
「花? こんな早うから、どないしたんや」
花は顔を上げた。
祖父は、まだ制服に着替えていない花を見て、何かを察したように足を止めた。
「……おじいちゃん」
「うん」
「私……」
言葉が出てこない。
行きたくない。
もう、行きたくない。
そう言いたかった。
けれど、声にしようとすると、喉が閉じてしまう。
祖父は急かさなかった。
花の目から、涙が一粒落ちた。
自分でも、どうして泣いているのか分からなかった。
ただ、もう何もないと言い続けることが、できなくなりそうだった。
祖父は花のそばまで歩いてきた。
そして、椅子の横に立ち、静かに言った。
「花。命を大切にせなあかんで」
花は顔を上げた。
それは、叱るような声ではなかった。
何かを命令する声でもなかった。
祖父は、いつものように不器用な顔をしていた。
「自分の命も、ちゃんと大事にせなあかん」
花は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
命を大切にする。
学校へ行くことだろうか。
つらくても頑張ることだろうか。
食事を残さず、迷惑をかけず、みんなと同じように生活することだろうか。
そうでなければ、自分は何をすればいいのだろう。
「……私、ちゃんと大切にしてるよ」
花は、涙を拭いながら言った。
「学校にも行ってるし、迷惑もかけてないし……」
祖父は、花の言葉を遮らなかった。
「せやな。花は、よう頑張っとるんやと思う」
その言葉を聞いた瞬間、花の顔が歪んだ。
頑張っている。
そう言ってもらいたかったはずなのに、胸の奥が痛かった。
頑張っているのに、どうしてこんなにつらいのだろう。
頑張っているのに、どうして明日が来るのが怖いのだろう。
頑張っているのに、どうして自分を嫌いになってしまうのだろう。
花は、とうとう声を押し殺して泣き始めた。
祖父は何も言わず、隣の椅子に座った。
泣き止むようにとも、元気を出すようにとも言わなかった。
ただ、そこにいた。
花は、初めて思った。
もしかしたら、命を大切にするというのは、ただ我慢し続けることではないのかもしれない。
けれど、それが本当なら。
自分は今まで、何を大切にしてきたのだろう。
答えはまだ、分からなかった。
朝の光が、少しずつ窓から差し込んでいた。
花は涙を拭いながら、祖父の隣に座り続けた。
学校へ行くかどうかも、今日をどう過ごすのかも、まだ決められなかった。
それでも、今だけは、何も言わずに隣にいてくれる人がいる。
そのことだけを、花は確かに感じていた。
コメント
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第5話、読み終えました……。花の、学校での“間違えないように”と必死に振る舞う姿が、胸に刺さりました。何をしても責められる、謝っても責められる、その閉塞感がひしひしと伝わってきて、読んでいて息が苦しくなりました。それでも祖父が「花の話を聞く」「行くか行かへんかはそのあと考えたらええ」と言ってくれるシーン、あの距離感が本当に優しくて……。花の涙が止まらない中、決して急かさず、ただ隣にいてくれた祖父。“じいちゃんには、花が変やとは思えへん”という言葉が、これほど重く響くのは、花が本当は誰かにそう言ってほしかったからなんだろうなと思います。