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#命
ruruha
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#学園
要 九十九
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星キラリ

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眠狂四郎
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花は、その日、学校を休んだ。
朝になっても制服に着替えられず、食卓の椅子に座ったまま動けなくなっていた花を見て、祖父は何度も時計を確認した。学校へ連絡しなければならない時間が迫っていたが、花を急かすことはしなかった。
「今日は休もか」
祖父がそう言ったとき、花はすぐに顔を上げられなかった。
「……いいの?」
「ええよ」
「でも、学校……」
「学校には、じいちゃんから連絡しとく」
花は膝の上で手を握った。
休んでいいと言われたのに、安心するより先に、申し訳なさが込み上げてきた。
「ごめんなさい」
「謝らんでええ」
「だって、おじいちゃんに迷惑かけるし」
「花」
祖父の声は静かだった。
「休むことまで、謝らんでええんや」
花はうつむいた。
自分が休めば、祖父は学校へ電話をしなければならない。先生に何か聞かれるかもしれない。いつも通りに仕事や用事を済ませることもできなくなるかもしれない。
それでも祖父は、休んでいいと言った。
花には、その優しさをどう受け取ればいいのか分からなかった。
「……明日は行くから」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
祖父は少しだけ眉を下げた。
「明日のことは、明日考えたらええ」
「でも……」
「今日、しんどいんやろ」
花は答えなかった。
答えなくても、祖父はそれ以上聞かなかった。
学校を休むことが決まっても、花の気持ちはすぐには楽にならなかった。むしろ、行かなければならない場所へ行かなかったことが、胸の中に重く残った。
みんなは今ごろ、教室にいる。
自分の席には、誰も座っていないだろうか。
休んだ理由を聞かれたら、誰かが何か言うだろうか。
先生は、昨日のことを思い出すだろうか。
考え始めると、止まらなかった。
花は居間のソファに座り、膝を抱えた。
テレビをつけても、画面の中で話している人の声は頭に入ってこなかった。
時計の針だけが進んでいく。
普段なら、授業を受けている時間。
普段なら、昼休みに弁当を開けている時間。
普段なら、帰りの会が終わるのを待っている時間。
何もしていない自分が、どんどん駄目な人間になっていくような気がした。
昼前、祖父が台所から声をかけた。
「花、お昼どうする?」
「……いらない」
「ちょっとでも食べられそうなもん、作ろか」
「大丈夫」
祖父は少し間を置いた。
「分かった。食べられそうになったら言うてな」
それだけ言って、台所へ戻っていった。
花は、ソファの上で目を閉じた。
怒られなかった。
無理に食べさせられることもなかった。
なのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
自分でも分からなかった。
午後になって、花は少しだけ部屋を片づけようと思った。
学校へ行かずに一日中何もしていないと、ますます自分が駄目になってしまう気がしたからだ。
机の上に積み重なったプリントを揃え、引き出しの中を整理する。使わなくなったノートをまとめ、古い教科書を棚に戻した。
何かをしていれば、余計なことを考えずに済む。
そう思っていた。
机の一番下の引き出しを開けたとき、奥に古い封筒が挟まっているのが見えた。
茶色く変色した封筒だった。端が少し折れ曲がり、長い間、誰にも触れられていないことが分かった。
花は引き出しから取り出した。
中には、何枚かの写真が入っていた。
一枚目は、昔の家の庭を写したものだった。
今よりも若い祖父が、縁側に座っている。隣には、小さな女の子がいた。
花は写真を近づけた。
女の子は、こちらに向かって笑っていた。
肩より少し長い髪。大きく開いた目。口元には、いたずらが成功したときのような笑みが浮かんでいる。
知らない女の子だった。
けれど、どこか見覚えがあった。
花は写真を裏返した。
そこには、細い文字で短く書かれていた。
『美咲、五歳の夏』
美咲。
それは、花の母親の名前だった。
花は、写真を持ったまま動けなくなった。
母親の名前は知っている。
祖父から聞いたことがある。自分が生まれてすぐに亡くなった人だということも、知っていた。
けれど、母親がどんな顔をしていたのか、どんな声で話していたのか、どんなふうに笑う人だったのか、花は何も知らなかった。
写真の女の子が、本当に母親なのだろうか。
花はもう一度、写真を表に返した。
笑っている。
当たり前のことなのに、そのことが不思議だった。
母親にも、こんな時期があったのだ。
誰かに抱き上げてもらったり、庭で遊んだり、写真を撮ってもらったりする時間があったのだ。
花を産んだ人。
花が生まれる前に生きていた人。
その二つの事実が、花の中ではうまくつながらなかった。
写真の中の女の子は、花のことなど知らない。
花が生まれることも、花がどんな子どもになるのかも知らない。
ただ、五歳の夏を生きている。
花は封筒の中を、さらに探した。
二枚目には、小学生くらいの美咲が写っていた。庭先で祖父らしき男性と並び、少し照れくさそうに笑っている。
三枚目は、海辺で撮られたものだった。
髪が風に吹かれ、目を細めている。片手で髪を押さえながら、誰かに向かって何かを叫んでいるようだった。
写真の端には、撮影した人の指が少しだけ写り込んでいた。
花は、その写真を長い間見つめていた。
写真の中の美咲は、何かを楽しんでいるように見えた。
何がそんなに楽しかったのだろう。
誰と海へ行ったのだろう。
どんな話をして、どんなことで笑ったのだろう。
花は、母親について知りたいことが、こんなにもたくさんあることに初めて気づいた。
知らないことばかりだった。
そして、知らないままでいることが、急に寂しくなった。
封筒の底に、少し大きな写真が一枚入っていた。
花は、それを慎重に取り出した。
そこには、制服姿の美咲が写っていた。
高校生くらいだろうか。
髪は以前より長くなり、顔つきも大人びている。けれど、目元には、幼い頃の写真と同じ明るさが残っていた。
美咲は数人の女の子と並んでいた。
みんな笑っている。
誰かは片手を高く上げ、誰かは隣の子の肩に腕を回していた。美咲は真ん中にいて、少しだけ身をかがめながら、隣の女の子と顔を寄せ合っている。
後ろには、建物が写っていた。
花は写真をよく見た。
建物の壁には、大きな文字が掲げられている。
『花火部』
花火部。
聞いたことのない言葉だった。
写真の裏には、ほかの写真よりも長い文章が書かれていた。
『最後の夏になるなんて、誰も思ってへんかった』
花は、何度もその一文を読み返した。
最後の夏。
何が最後だったのだろう。
高校生活だろうか。
部活動だろうか。
それとも、この写真に写っている人たちと過ごす時間のことだろうか。
花は写真の中の顔を一人ずつ見た。
美咲の隣にいる女の子は、目を細めて笑っている。反対側の女の子は、少し恥ずかしそうに口元を押さえていた。後ろにいる男子は、誰かの肩に手を置き、楽しそうにこちらを見ている。
みんな、そこにいる。
それぞれに顔があって、表情があって、誰かと近い距離で笑っている。
花は、写真の端をそっとなぞった。
この人たちは、母親の友達だったのだろうか。
美咲は、この人たちと一緒に学校へ通い、何かを作り、笑っていたのだろうか。
花には想像できなかった。
自分が学校で過ごしている時間とは、まるで違う世界に見えた。
教室で誰かの笑い声が聞こえると、花は自分のことを言われているのではないかと考える。
誰かと目が合えば、何かを指摘されるのではないかと身構える。
けれど、写真の中の美咲は、誰かの隣で安心したように笑っていた。
同じ学校という場所に通っていたはずなのに、どうしてこんなに違うのだろう。
花は写真を胸の前で持ったまま、しばらく動かなかった。
母親のことを、もっと知りたかった。
どんな声だったのか。
どんな性格だったのか。
何が好きだったのか。
何を嫌がったのか。
誰かを好きになったことはあったのか。
悲しいときには、誰に話を聞いてもらっていたのか。
そして、どうして自分を産もうと思ったのか。
考え始めると、次々に疑問が浮かんだ。
けれど、そのどれにも答えられる人は、もういないのかもしれなかった。
花は写真を封筒に戻そうとした。
そのとき、廊下から祖父の足音が聞こえた。
「花、何しとるん?」
祖父が部屋の入口に立った。
花は顔を上げた。
手には、写真があった。
祖父の視線が写真へ移る。
その瞬間、祖父の表情が変わった。
驚いたような、懐かしむような、それだけでは説明できない顔だった。
花は写真を持つ手に力を入れた。
「……これ、お母さん?」
祖父は、すぐには答えなかった。
写真を見つめてから、静かにうなずいた。
「せや。美咲や」
花は写真を見下ろした。
「……お母さん、こんな顔やったんやね」
「そうやな」
「私、知らなかった」
その言葉を口にした途端、胸の奥がきゅっと縮んだ。
母親の顔を知らない。
母親の声を知らない。
母親が何を食べて、どんな服を着て、どんなことで笑っていたのかも知らない。
自分を産んだ人なのに。
自分とつながっているはずの人なのに。
花にとって母親は、名前だけが残された、遠い存在だった。
「……もっと、写真ある?」
祖父は花を見た。
「あるで。まだ、何枚か残っとる」
「見てもいい?」
「もちろんや」
祖父は部屋に入り、花の隣に腰を下ろした。
花は、写真を一枚ずつ祖父に見せた。
五歳の夏。
海辺。
高校の制服。
花火部の仲間たち。
祖父は写真を見ながら、ときどき小さく笑った。
「このときは、海から帰ってきて、靴まで砂だらけにしよったな」
「……お母さんが?」
「せや。玄関で靴を脱いだら、砂がどっさり落ちてきてな。何回掃除しても出てくるんや」
花は、写真の中の美咲を見た。
「……お母さん、そういうことする人だったんだ」
「昔から、じっとしとるんが苦手な子やった」
祖父の声には、懐かしさがにじんでいた。
花は、もっと聞きたくなった。
母親がどんな子どもだったのか。
どんな高校生活を送っていたのか。
写真に写っている人たちは、どんな人だったのか。
けれど、聞けば聞くほど、母親が自分の知らないところで生きていたことを思い知らされる気がした。
「……おじいちゃんは、お母さんのこと、何でも知ってるの?」
祖父は少し考えた。
「何でもは知らんな。親やからって、子どもの全部が分かるわけやない」
「……そうなの?」
「そうや。美咲にも、わしの知らん顔がぎょうさんあったと思うで」
花は写真を見つめた。
母親にも、自分の知らない顔があった。
当たり前のことなのに、少し不思議だった。
祖父の娘であり、花の母親である美咲は、それだけではなかったのだろう。
誰かの友達で、誰かに笑いかける人で、何かに夢中になる人だったのだろう。
写真の中の美咲は、花の母親になる前から、美咲として生きていた。
「……お母さん、楽しそう」
花がそう言うと、祖父は写真を見つめたまま答えた。
「楽しかったんやろな」
「……学校、好きだったのかな」
「好きなことも、嫌なこともあったやろ。高校生やったんやからな」
祖父は少しだけ笑った。
「美咲も、悩んどったで。友達と喧嘩したり、進路で迷ったり、家で機嫌悪うなったりな」
花は目を丸くした。
「……お母さんも?」
「当たり前やろ」
祖父は写真を花に返した。
「どんな人でも、毎日楽しいことばっかりやない」
花は、写真の中の美咲を見た。
悩んだり、怒ったり、迷ったり。
そんな母親を想像することは、今までなかった。
花にとって母親は、最初からいなかった人だった。
自分を産んで、亡くなった人。
その説明の中に、母親がどんなふうに生きていたのかは含まれていなかった。
けれど、写真の中の美咲は、確かに生きていた。
誰かと笑い、誰かと喧嘩し、何かに迷いながら、自分の時間を過ごしていた。
花は、写真をそっと封筒に戻した。
「……もっと知りたいな」
祖父は花の横顔を見た。
「美咲のこと?」
花はうなずいた。
「うん。お母さんが、どんな人だったのか」
祖父は、しばらく何も言わなかった。
それから、花の頭にそっと手を置いた。
「ほな、少しずつ話そか」
花はうつむいたまま、小さくうなずいた。
その日の夕方、花は写真を机の上に並べていた。
母親の顔を見ていると、不思議な気持ちになった。
会ったことのない人なのに、もっと知りたいと思う。
声を聞いたこともない人なのに、どんなふうに話すのか想像してしまう。
自分のことを、どう思っていたのだろう。
花は、写真の中の美咲に問いかけるように、そっと指を伸ばした。
「……お母さん」
もちろん、返事はなかった。
写真の中の美咲は、ずっと同じ顔で笑っている。
花は、もう一枚の写真を手に取った。
花火部の仲間たちが並んでいる写真だった。
美咲は真ん中で笑っている。
その隣には、肩を組んでいる女の子がいた。少し離れたところには、カメラに向かって変な顔をしている男子もいる。
花は、彼らの顔を覚えようとした。
母親が生きていた時間を、少しでも知りたかった。
自分が知らないまま終わってしまった時間を。
自分が生まれる前に、確かに存在していた世界を。
そして、写真の裏に書かれた言葉が、また目に入った。
『最後の夏になるなんて、誰も思ってへんかった』
花は、その文字を見つめた。
最後の夏。
なぜ、そんな言葉が残されているのだろう。
どうして、誰も思っていなかったのだろう。
胸の奥に、小さな疑問が生まれた。
花は写真を裏返し、もう一度、文字を読み直した。
まだ、何も知らない。
母親がどんな高校生活を送っていたのかも。
花火部で何をしていたのかも。
写真の中の人たちが、その後どうなったのかも。
けれど、知りたいと思った。
母親が生きていた時間を。
自分が生まれる前の、母親の人生を。
花は写真を封筒に戻さず、机の上に置いた。
明日、学校へ行けるかどうかは、まだ分からなかった。
それでも、今日一日の中で、初めて自分から何かを知りたいと思えた。
それは、ほんの小さな気持ちだった。
けれど花にとっては、しばらく忘れていた感覚だった。
母親の写真を見つめながら、花はもう一度、その名前を心の中で呼んだ。
美咲。
知らない母親の名前が、少しだけ近くなった気がした。
コメント
1件
第6話、読み終えました。花が学校を休んだ日、古い封筒から見つけた母親・美咲の写真——あの場面、すごく印象的でした。 「知らない人の顔」でありながら「母親」であることの距離感と、でもどこか懐かしいような違和感。写真に残された「最後の夏」という言葉が、すごく気になります。 祖父が「美咲にもわしの知らん顔がぎょうさんあった」と言う台詞、じんわりきました。