テラーノベル
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転げるように廊下に飛び出してすぐ、私は強い違和感を覚えた。
まず、周辺の構造が帰ってきた時と違っていた。私達が借りた部屋、三〇三号室は廊下の端にあったはずだ。それが廊下は長く左右、そして前へと伸びており、照明は暗く数メートル先は何も見えないくらい真っ暗だ。
それに何だか、やたらジメジメしていて生臭い。よく見れば床の端からは汚水のようなモノが染み出していて……。
変だな、と私は思った。このホテルはネットでも高評価な老舗だったし、確かに建物は古かったけれど手入れが行き届いて清潔そのものだったのに……。
いや、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
早くマキオを探さないと……。
少し迷い――、私は真ん中の廊下を壁に沿って歩き出した。
暗闇の中を進めば進むほど、足元にたまった水の量が増えているような気がした。しかも、ぬかるみの中を歩いているかのように前に進みにくい。
……おかしい。明らかにおかしい。本当にここはホテルの中、何だろうか?
それにしても、せめてスマホを部屋から持ってきたらよかった。灯りさえあれば廊下がどんな様子なのかもわかって、少しは安心できただろうに。
そんなことを考えているうちに――、突然、壁が消えた。
廊下の端まで来たわけじゃない。文字通り、この世から、物質として消滅したのだ。身体を寄りかからせていた支えを失い、悲鳴をあげる間もなく私はその場に転倒していた。
バシャンとしぶきを上げて、私は水中に顔を突っ込んでいた。泥臭い水を飲み込んでしまい、激しくむせてしまう。必死で態勢を立て直し、なんとかその場で立ち上がるが――。
「……は?」
思わず、呆れた声を私は発していた。
頭上から静かに降り注ぐのは、柔らかな月の明かり。
それに照らし出され、葦の生い茂る川のど真ん中に私は一人、佇んでいた。稚児啼川の清らかな流れとは全然、違う。薄汚れた東京の河川だ。
あの日、私はここで喉が枯れるほど泣き叫んで、必死に……。
――オン・マーラヤ・パーピーヤス・ソワカ。
オン・カーマダーヤ・マハーラジャ・ソワカ。
オン・パーピマ・マーヤヴァンス・ソワカ。
あぁ、これはお母さんが唱える真言。第六天魔王波旬を讃えるための。
……いや、ただの呪詛だ。現実から目を背け、全ての責任を他人に押しつけ、都合の良い幻想にすがりたいと妄想する者たちがこの世を呪う声だ。
「そうそう。だつまり、貴女もそんな人間の一人ですぅ……」
ガサゴソと音を立て水草をかきわけて――、見覚えのある異形が姿を現わす。
下卑た微笑みを浮かべる白い仮面。枯れ枝のようにねじ曲がった黒い胴体。獣毛に包まれた複数の脚は太くおぞましいが、水面の上に浮かんでおり、まるでフィギュアスケートの選手のようにスマートな動きを見せる。
そいつは以前見かけた時より明らかに大きくなっていた。その時も二、三メートルとじゅうぶん巨大だったが、今は少なく見積もっても五メートルはある。
「あなたにこの先、す、救いはありません。な、泣いて、悔やんで、憤って、また泣き喚いて……。誰かに看取られることもなく、たった一人で死ぬんですぅ」
声が出なかった。震える事すらかなわず、私はただ異形を見上げるしかなかった。
しかし、悲しくはなかった。恐怖もない。ただ来るべき時が来たという、強い諦観だけが私の中にあった。異形の言うことはすべて正しく――、私には反論の余地などなかったから。
なんて情けない女。今すぐ、死ねばいいのに。
「は、はいはい。お望みどおりにして差し上げますよォ。身体を真っ二つに引き裂いて差し上げますぅ」
黒く太い指を蠢かしながら、異形が手を伸ばして来る。
凝り固まったままの白い仮面の笑みがさらに大きくなったような気がした。
「――そこまでだ」
鈴を鳴らすような声が頭上から降って来た。子供の声だ。思わず私はそっちに視線を逸らしていた。
「……え? マキオ?」
呆けた声で私が息子の名前を呼んだのとほぼ同時だった。
ドンと言う空気を突き破るような音を立てて、小柄な人影が垂直に降って来た。
背中には大きく広げられた、焦げ茶色の猛禽類のそれを思わせる一対の翼。月光の中、数枚の羽根が舞い散るのが見えた。
「調子に乗るなよ、下賤な雑鬼め」
右目を爛々と赤く輝かせながら、人影が、子供が立ち上がる。
子供はやはっり、マキオだった。だけど、マキオは私の知らない別のマキオの顔をしていた.
その顔つきは険しく、怒りのせいか紅潮させて。
子供が浮かべていい表情じゃない、と私は思った。子供はもっと、柔らかな表情でいるべきだと。
これじゃ、まるで――そう、ミュージアムの入り口に飾られていた天狗だ。
ギェエエエエエエ、という絶叫があがった。聞くに堪えない、汚い絶叫が。
叫び声をあげているのはマキオに雑鬼と呼ばれた異形だった。異形は怒り狂っていた。右腕の肘から先をスッパリと切断された痛みとその屈辱に。
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何がどうなって、そんなことになったのか。私には皆目、見当もつかなかった。
「母上様のお耳を穢すこと、これ以上はまかりならん」
そう言ってマキオが異形の足元に向かって何かを投げつける。
腕だった。切り落とした異形の腕。血はまったく滴っておらず、その断面はツルツルとした質感。やはり真っ当な生き物とは思えない。
「いずれ、貴様のことはこのまろが喰らってやる。取り込むのではない。食い殺す。――だが、今はそれを持って失せるがいい」
マキオの言葉に異形は不満げな唸り声をあげるが、手傷を負ったままでは不利だと判断したらしい。水の中から自らの腕を拾い上げ、マキオに注意を向けたまま後退って行き、葦の茂みの中にその巨体を消す。
短い沈黙の後、
「……ママ、大丈夫だった?」
緊張の解けた声で言ってマキオがふり返った。
そこにいたのは私の知っているマキオだった。私の息子で、私の唯一の家族。
マキオは微笑んでいた。静かに。柔らかに。でも少し悲しそうに。
「駆けつけるのが遅れてごめん。あいつの術、思ったより複雑な構造だったの。……ちょっと待ってね。この異界、今壊すから」
私は迷っていた。
マキオになんと言葉をかければいいのか、分からなかった。
助けてくれてありがとう?
それとも、さっきは酷いことをいってごめんなさい?
どちらとも決めかねているうちに――私は意識を失っていた。
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