テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
350
82
#王子
すっこ
173
#主人公最強
杯雪乃
1,309
相原美緒。
母親。
相原奈緒。
私は、
その名前を何度も見た。
美緒。
澪。
どちらも、
読み方は同じ。
十七年前。
旧産科病棟から消えた少女は、
三日後。
別の県の病院で、
相原奈緒の娘として診察を受けていた。
「じゃあ」
私は言った。
「三田村さんが連れていったのは、奈緒さんの娘だった?」
真壁刑事は首を振る。
「それはまだ分かりません」
「でも母親欄に」
「書類上は、です」
その言葉を、
この事件で何度聞いただろう。
書類上は。
戸籍上は。
記録上は。
私たちは、
紙の中で何度も家族になり、
何度も他人になっている。
父が、
相原美緒の記録を見つめていた。
「この名前……」
「知ってるの?」
「奈緒が一度だけ言ってた」
「何を?」
父は、
遠い記憶を見るように言った。
「娘に本当につけたかった名前だって」
胸がざわつく。
「ひかりじゃなく?」
「ああ」
「じゃあ、ひかりは?」
「あとからつけた名前だ」
また。
名前が変わる。
「どうして?」
父は答えなかった。
代わりに、
由紀子が電話越しに言った。
『千佳が変えさせたの』
私はスマートフォンを見る。
「母が?」
『奈緒の娘を隠すために』
「誰から」
『分からない』
「またそれ?」
声が強くなる。
『本当に分からないの』
由紀子も、
苛立っていた。
『千佳は何もかも一人で決めた』
「でも守ろうとしてたんでしょう」
『そうよ』
「なら」
『守るって言えば、何をしてもいいの?』
私は黙った。
由紀子の声が震える。
『名前を変えて』
『親を変えて』
『住む場所を変えて』
『本人にも本当のことを教えない』
そして。
『それって、生きてるって言える?』
私は、
何も答えられなかった。
*
真壁が、
十七年前の資料を机に広げた。
水城澪。
篠宮ひかり。
相原美緒。
さらに、
篠宮沙耶。
同じ年。
同じ五月十七日。
複数の出生記録。
複数の母親。
複数の名前。
「七人が十七年前にやろうとしていたことを整理しましょう」
真壁が言った。
「水城千佳さんを追い詰めることではなく」
「子どもたちの名前を戻すこと」
私が続けた。
父が頷く。
「そうだ」
「じゃあ七人は、母に何を要求したの?」
最初に答えたのは、
榊原美佐子だった。
「DNA鑑定」
「三人とも?」
「当時、確認できる子は全員」
「母は拒否した?」
「最初はね」
「どうして」
榊原は苦い顔をする。
「親子関係が壊れるからって」
「もう壊れてるでしょう」
「千佳にとっては違った」
榊原は言った。
「一緒に暮らしていることが、家族の証明だったから」
血が違っても。
名前が違っても。
記録が偽物でも。
母にとって、
私が娘なら、
私は娘だった。
「七人はそれを壊そうとした?」
「戻そうとしたの」
榊原が訂正する。
「壊れる前に」
「何を?」
「本来の人生を」
その言葉が、
胸に残った。
本来の人生。
そんなものが、
今さらあるのだろうか。
*
高瀬は、
会社の金を使って調査会社を雇った。
奈緒の娘の所在を調べた。
榊原は、
二十九年前の社員記録を集めた。
父は、
自分と私のDNA鑑定をしようとした。
由紀子は、
偽造前の出生届を取り戻そうとした。
佐伯は、
役所に残っていた古い戸籍資料を調べた。
柿崎先生は、
改ざん前の病院記録を復元しようとした。
三田村は、
消えた少女を探した。
「みんな」
私は言った。
「母に隠れて?」
父が頷く。
「千佳に言えば、また全部動かされると思った」
「動かす?」
「記録を変える」
住所。
名前。
親子関係。
母は、
一人の少女を守るために、
別の少女を動かす。
一つの記録を隠すため、
別の記録を作る。
「だから七人で」
私は言った。
「母が触れない場所に、本当の記録を集めようとした」
「そうだ」
「それが地下資料室?」
「そうだ」
岸本総合病院。
旧産科病棟。
地下資料室。
十五年前も。
十七年前も。
そして、
今も。
すべてが、
そこへ戻っていく。
「でも失敗した」
父が頷く。
「千佳に気づかれた」
「どうやって」
父は私を見る。
「お前が写真を見つけたからだ」
二人の赤ん坊。
どっちが私?
その写真。
母は、
七人が何かを調べていることに気づいた。
そして。
先回りした。
「母は何をしたの」
父は答えなかった。
榊原が、
代わりに口を開いた。
「全部消した」
「何を?」
「私たちが集めた記録」
背中が冷える。
「地下資料室から?」
「ええ」
「母一人で?」
「分からない」
また。
「そのあと」
榊原は続ける。
「高瀬さんの会社に調査のことを漏らした」
高瀬は、
社内で立場を失った。
「由紀子さんの出生届も?」
「盗まれた」
由紀子が言う。
『私が持ってた原本も、なくなった』
「佐伯課長は?」
佐伯が、
低い声で答えた。
「役所内部の資料を勝手に調べたことを告発された」
「母に?」
「ああ」
「処分?」
「注意で済んだ。でも昇進は止まった」
「柿崎先生は」
「記録改ざんを告発された」
知っている。
医者を一度辞めた。
「父は?」
私は訊いた。
父は笑った。
「家を失った」
「母が追い出した?」
「違う」
「じゃあ」
「千佳が」
父は言った。
「俺を父親ではないことにしようとした」
私は息を止める。
「戸籍を?」
「そこまではできなかった」
「でも」
「澪に、俺は本当の父親じゃないと言った」
十四歳より前。
だから、
私は父を避けるようになった?
断片的な記憶。
母。
――あの人はあなたのお父さんじゃない。
私。
――じゃあ誰なの?
母。
――知らなくていい。
胸が痛んだ。
「母は」
私は呟いた。
「七人が取り戻そうとしたものを」
一つずつ。
壊していった。
仕事。
家族。
信用。
名前。
「だから」
榊原が言う。
「私たちは千佳を止めようとした」
「殺そうとしたんじゃなく?」
「最初は」
その言葉に、
私は顔を上げた。
「最初は?」
榊原は黙る。
由紀子が言った。
『みんな途中から、千佳がいなくなれば終わるって思った』
胸が冷える。
「殺したいと思った?」
『思った人もいた』
「由紀子さんは?」
長い沈黙。
『思った』
はっきり言った。
『一度だけ』
「いつ」
『自分の娘の名前が消えたとき』
私は動けなくなった。
「娘?」
以前、
母が由紀子から子どもを奪ったと聞いた。
「その子って」
由紀子は答えない。
「三人のうちの一人?」
電話の向こう。
息を飲む音。
「由紀子さん」
『……今は言えない』
「どうして!」
『私の口から言ったら』
声が震えた。
『また、その子の人生を私たちが決めることになるから』
また。
本人不在のところで、
大人が名前を決める。
親を決める。
人生を決める。
それを、
由紀子はもうしたくない。
初めて、
その沈黙を責められなかった。
*
「一つ確認したい」
真壁が言った。
「七人が取り戻そうとしていたのは、自分たちの人生だけではない?」
父が頷く。
「一番は子どもたちだ」
「水城さんたち?」
「そうだ」
「なら」
真壁が現在の死亡通知を見る。
「三田村も、同じことを続けようとしている可能性がある」
死亡通知で、
全員を集める。
恐怖を使って。
人を死なせてまで。
「それじゃ母と同じじゃない」
私は言った。
目的が正しくても。
方法が、
人の人生を奪う。
「三田村さんは」
私は続ける。
「母を止めたかったのに、母と同じことしてる」
誰も否定しなかった。
その瞬間、
柿崎先生が、
古い資料を一枚取り出した。
「これを見てください」
「何ですか」
「十七年前、七人で作った合意書です」
黄ばんだ紙。
表題。
三名の子どもの身元確認に関する合意
三名。
やはり。
三人いた。
内容。
一、現在の戸籍・氏名を本人の同意なく変更しない。
二、DNA検査その他の結果を本人が成人するまで非公開とする。
三、三名が自ら希望した場合に限り、記録を本人へ開示する。
私は、
そこを何度も読んだ。
七人は、
勝手に本当の名前へ戻そうとしたわけではなかった。
最後には、
選ばせようとした。
本人に。
「これ」
私は言った。
「母は署名してない」
七人の名前。
高瀬。
榊原。
雅彦。
由紀子。
佐伯。
柿崎。
三田村。
その下。
水城千佳。
空欄。
「千佳さんは拒否しました」
柿崎先生が言う。
「理由は?」
「子どもに選ばせるのは残酷だ、と」
「選ばせないほうが残酷でしょう」
思わず言った。
先生は、
小さく頷く。
「今なら私もそう思います」
母は、
選ばせなかった。
自分で決めた。
誰が澪か。
誰がひかりか。
誰が娘か。
誰が母親か。
そして。
誰が、
真実を知っていいか。
「だから七人は」
私は合意書を見る。
「母が殺した人生を取り戻そうとしてた」
殺した。
もちろん、
本当に命を奪ったという意味ではない。
でも。
名前を奪う。
家族を奪う。
過去を奪う。
自分で選ぶ権利を奪う。
それは、
人生を一度殺すことなのかもしれない。
「でも」
私は言った。
「七人も途中で間違えた」
真壁が頷く。
「そうですね」
母を止めるため、
嘘をついた。
記録を隠した。
子どもを連れ出した。
警察を呼ばなかった。
そして、
母がいなくなればいいと願った。
誰も、
完全な被害者ではない。
誰も、
完全な加害者でもない。
そのとき。
真壁が合意書の裏面に気づいた。
「何か書いてあります」
裏返す。
鉛筆。
薄い字。
母の筆跡。
私はすぐに分かった。
あなたたちは何も分かっていない。
その下。
本当の名前に戻せば救えると思っている。
さらに。
でも、戻した瞬間に死ぬ子がいる。
私は息を止めた。
「死ぬ?」
誰が。
なぜ。
最後に。
母はこう書いていた。
だから私は、三人とも嘘の名前で生かす。
三人とも。
一人を隠すためではない?
全員を、
生かすため?
真壁が、
紙を光に透かした。
「もう一枚重なっています」
合意書の裏に、
薄い紙。
貼りついている。
慎重に剥がす。
現れたのは、
見覚えのある枠。
黒い縁。
氏名。
死亡日。
死亡場所。
まだ何も書かれていない。
でも。
形式は、
間違いない。
死亡通知。
「これ……」
私は呟いた。
現在のものより古い。
十七年前。
死亡通知が始まるとされていた、
二年前。
そして右下。
小さな署名。
水城千佳
私は、
紙を見つめた。
死亡通知は、
十五年前に突然作られたんじゃない。
七人が母の壊した人生を、
取り戻そうとし始めたとき。
母はすでに、
その裏で。
死亡通知の原型を、
作り始めていた。
コメント
1件
読了しました。第56話、重くて美しい回でしたね。 「三人とも嘘の名前で生かす」という母の一文に背筋が凍りました。これまで一人の少女を隠すための偽装だと思っていたのに、裏返せば“全員を生かすため”だったかもしれない――その皮肉と痛みが胸に刺さります。 七人それぞれが地味に、でも確実に動いていた痕跡が積み重なる感じが好きです。由紀子さんの「♡♡♡たいと思った。一度だけ」という告白も、あの沈黙も、全部リアルでした。 そして最後の死亡通知の原型。母もまた、最初から“同じ方法”を選んでいた――ラストのゾッとするような繋がり方、本当に巧いです。