葉月が缶ビールとミックスナッツを持って庭へ戻ると、ちょうど賢太郎が庭に入って来た。
賢太郎はジーンズにグレーのTシャツを着ていた。
そこで葉月は、自分がスウェット姿のスッピンだということに気づき焦る。
(まあ、薄暗いからあんまり見えないか……)
そう自分に言い聞かせる。
「お招きありがとう」
賢太郎は挨拶と同時に、手に持っていた紙袋を葉月に渡した。
それは、葉山にある有名レストランのクッキーだった。
「わぁ、ありがとう! ここのクッキー好きなんだ。でも、どうしたの? これ」
「この前、そのレストランで取材があった時にもらったんだ」
「へぇ、そうなんだ。あ、どうぞ座って」
そこで二人はガーデンチェアに腰を下ろした。
葉月はビールを賢太郎の前に置いて、尋ねた。
「取材って何の取材?」
「『ネイチャーストーリーズ』」
「え? あのテレビの?」
「そう」
賢太郎はビールの缶をプシュッと開けて、美味しそうに一口飲んだ。
賢太郎が言ったテレビ番組は、有名な長寿番組なので葉月も知っていた。
葉月の知人で長野在住の山岳写真家・佐伯岳大も、10年前に出演したことがあると言っていた。
「すごいなぁ。あの番組って、その業界を代表する著名人が出るんでしょう?」
「知ってるんだ」
「うん。時々見てるもん」
「実はここ数ヶ月密着されてたんだ。で、葉山のレストランでの撮影が最後だったんだ」
「へぇ、そっかー。あ、ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」
「ん?」
「佐伯岳大って人知ってる?」
賢太郎はすぐにピンときたようだった。
「ああ、山岳写真家の? 知ってるよ」
「やっぱり!」
「前に写真展の表彰式で、一緒になったことがある」
「そうなんだ。同じ写真家だから接点があるかなーって思って聞いてみたの」
「佐伯さんと知り合い?」
「うん。佐伯さんの息子さんと航太郎が同い年で仲良しなんだ」
「へぇ、そうなんだ」
賢太郎は再びビールをグビグビと飲んだ。
葉月はつい、賢太郎の男らしい喉の動きに目を奪われてしまう。
「で? 今日はどんな一日だった?」
「うーん、特に変わりはないかな。事故報告も少なかったし、週の中日はいつもこんな感じ」
「そっか。事故が集中するのって、やっぱり休みの日?」
「うん。お盆、大晦日、ゴールデンウィークなんかは多いかなぁ。あとは急に雪が降った時も多いよ」
「南関東の人は、雪道運転苦手だからね」
「うん。それに、冬でもスタッドレスをつけない人が多いしね。桐生さんは撮影で田舎の方にも行くんでしょう?」
「行くよ。山の上とか、ひと気のない山里とか」
「熊とか出ないの?」
「遭遇したことは何度もあるよ」
「えっ、マジで?」
「うん。距離があったから大事には至らなかったけどね」
「うわー、怖い。じゃあ熊鈴とかつけて行くの?」
「ハハッ、鈴はつけてないけど、熊が出そうな場所ではラジオをつけたりするかなぁ」
「そっか、音の出るものなら何でもいいのね。ちなみに、熊スプレーみたいなのは持って行くの?」
「それは持ってないな」
「じゃあ、もし襲われたらどうするの?」
「登山用のピッケルとアウトドア用ナイフで応戦かな?」
「そうなんだ」
葉月は感心しながらビールを一口飲んだ。
すると、今度は賢太郎が葉月に尋ねた。
「あのあと、航太郎は大丈夫だった?」
賢太郎は航太郎を気にかけてくれているようだった。
「家に戻ってからは、ずっと上機嫌だったから大丈夫よ。夜はお風呂で鼻歌まで歌っていたし……フフッ」
賢太郎は、それを聞いて少しホッとした様子だった。
「それなら良かった」
「うん。心配してくれてありがとう」
「で……さ、あのこと、考えてくれた?」
突然の問いに、葉月は一瞬何のことか分からなかった。
「えっと……なんだっけ?」
「ほら、交際お試し期間!」
「えっ?」
「ん?」
「それ、本気で言ってるの?」
「もちろん」
「…………」
「シングルマザーが恋に憶病になる気持ちもわかるよ。でも、そんなに頑なになる必要もないんじゃないかな?」
「……そりゃ頑なになるわよ」
「どうして?」
「だって、一度失敗してるのよ! それに、もう二度と子供を巻き込むようなことはしたくないし」
「即決できない理由は、やっぱりそれか」
「当たり前じゃない。息子が一番大事なんだから」
「ハハッ、まあそれは当然だろうけど」
「だから、今は恋人なんて考えられないの。もし今恋人ができても、その人は絶対に一番にはなれないのよ? いつも二番。息子の次の二番手なんだから」
「二番手…控えのピッチャーみたいだな。もちろん、それでもいいよ」
「!」
「俺も航太郎のことはちゃんと考えてるし、彼が君にとって大切な存在だってことも、わかっているつもりだよ」
その言葉が賢太郎の本心であることは、葉月にも十分伝わってきた。
彼の表情からそれがはっきりと読み取れる。
しかし、葉月はあえてこう言った。
「子持ちの私と付き合っても、あなたにはなんのメリットもないのよ。それなのに、どうしてそんなことを言うの?」
その言葉に、賢太郎は驚いた顔をして葉月をじっと見つめた。
「メリット? メリットって何? 恋に堕ちるのに、メリットなんて関係ないだろう?」
(恋……今、この人、恋って言った? つまり私に恋をしてるってこと? いや、そんなはずないわ……きっと勘違いよ、落ち着いて、葉月!)
その時、賢太郎は立ち上がって椅子をくるりと回すと、葉月の傍に移動させた。
そして椅子に後ろ向きにまたがり背もたれに両腕を置くと、その上に顎を乗せて言った。
「俺は葉月とつきあいたい」
賢太郎の真剣な瞳に射抜かれた葉月は、身体が硬直して身動きが取れなくなった。
(なんて澄んだ瞳なの! それに、懇願するような眼差しと、とろけるような甘い声……。ああ、ダメだわ! もう頭の中が真っ白になっちゃう!)
身体中から力が抜け、崩れ落ちそうになる葉月に向かって、賢太郎がもう一度言った。
「俺たちが出逢ったのは、運命だと思わないか? だから葉月、『うん』と言って!」
再び甘い声で囁かれた葉月は、心の奥底にある意志に逆らわずにはいられなかった。
「わかったわ……」
葉月の言葉を聞いた瞬間、賢太郎は満面の笑みを浮かべて嬉しそうに笑った。
コメント
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オホホホホ‼️この強引さはとてもよいですね。これからどんなことが待ち受けているのか、楽しみです。
賢太郎さんは直球だね(*´艸`*)フフ こんなに素敵な人から思われて葉月ちゃんも覚悟を決めたら?💗 母としては航太郎が一番だろうけど自分の幸せだって考えたっていいと思うなぁ。
恋に落ちるのにメリットとか関係ないと思うんだけどな。 だから自分の気持ちに素直になって正解よ👍 賢太郎さんとなら幸せになれると思うよ🎵