テラーノベル
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夜がいちばん深くなった頃、雲の切れ間から薄い月明かりが差し込んだ。
完全な満月ではない。まだ本番の夜でもない。けれど、青白い輪郭が時計塔の窓辺にのぞき、機械室の金属を冷たく照らした。その光を見た瞬間、サベリオの胸の奥で何かが静かに鳴った。
コスタチンも同じだったらしい。
老人は黙って工具箱の底を探り、布に包んだ細長いものを取り出した。
「それ」
サベリオが息を止める。
包みの中から現れたのは、鈍い色の継ぎ金具だった。新品ではない。むしろ使われるのを長く待っていたみたいに、角が手になじむ形をしている。
「事故の年に消えたやつだ」
コスタチンが言う。
「書類からだけな」
サベリオは目を見開く。
「持ってたの」
「隠した」
コスタチンはあっさり認めた。
「当時、この町は何か壊れるたび、すぐ古い方を悪者にした。鐘まで『危ないから外せ』と言い出す連中がいた」
金具を掌で転がす。
「だから、簡単に触れられん場所へやった」
「なんで今まで言わなかった」
「言う相手を見てた」
その返事に、サベリオは何も返せない。
師匠はずっと、直す技術だけじゃなく、渡す時機まで見ていたのだ。
コスタチンは継ぎ金具を差し出した。
「使うかどうかは、お前が決めろ」
サベリオは受け取る。冷たい。けれど、その冷たさの奥に長い年月が詰まっている。事故の年に消えた記録。本番の前に前倒しされた撤去準備。勝てないと笑われた橋の下の連中。その全部が、この小さな金具の重さへ集まっている気がした。
「これ、使ったら」
サベリオはゆっくり言う。
「もう後戻りできない」
「今さらだ」
コスタチンが答える。
「お前、ずっと前から後戻りなんかしてない」
その言葉で、不思議なくらい迷いが消えた。
サベリオは頷く。
「使う」
二人はすぐ位置を合わせた。ひびの入った部分の負荷を逃がし、吊りの角度を整え、継ぎ金具を差し込む。ぴたりとはまるわけではない。古い機械は、人が寄り添うように合わせてやらなきゃ動かない。サベリオは息を整え、ほんの少しだけ力をかける。
金属が、短く鳴いた。
機械室の空気が変わる。
下で待っていたデシアも、その微かな変化に気づいた。上を見上げる。音ではなく予兆。鳴る前の震えだけが、冷たい夜気を通って落ちてくる。
彼女は台本を閉じた。
今は読む時じゃないと、本能で分かった。
上では最後の固定が終わる。
サベリオは額の汗を腕で拭った。真夜中の風は冷たいのに、手の中だけ熱い。
「試すぞ」
コスタチンが言う。
サベリオが小さく頷く。
振りの加減を確かめるための、ごく控えめな操作。
ほんの少しだけ。
それでも、もし失敗すれば今までの調整が崩れる。時計塔の中で、二人の息がぴたりと揃った。
そして――。
ごく低く、短い響きが生まれた。
鐘そのものの本番の音ではない。けれど確かに、死んでいたはずの重みが、向こう側から返事をした音だった。
サベリオは目を閉じる。
危うかった。泣きそうになると言った自分を、師匠に笑われたくなくて必死に堪える。
コスタチンは見ないふりをして工具を片づけた。
「本番までは持たせる」
低い声で言う。
「だが鳴らすのは、お前らの舞台だ」
サベリオは喉を鳴らしながら、なんとか頷いた。
時計塔を降りると、デシアが下で待っていた。
彼女は何も聞かず、まずサベリオの手を見た。金属の粉がつき、指先が少し切れている。
「鳴った?」
それだけ聞く。
サベリオは、うまく笑えない顔のまま答えた。
「少しだけ」
デシアの目が、月を見た時みたいに揺れた。
「じゃあ、いける」
風が橋を渡る。
雲の切れ間に浮かぶ月の輪が、今夜だけは少し近く見えた。
#劇団再生
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