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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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夕暮れが坂道をゆっくり滑り降りてくるころ、「月椿堂」の引き戸は、いつも少しだけ重たく鳴る。
その音を聞くたび、クリストルンは一日の終わりではなく、店がいちばん生き生きする時間の始まりだと思っていた。
「ほらモンジェ、看板まっすぐ。今日も三度くらい曲がってる」
「看板はな、客の心に合わせて傾くもんだ」
「そんな質屋いやだよ」
脚立の上で胸を張る父に、クリストルンは下から手を伸ばして看板を直した。大きな体に似合わず、釘一本打つにも妙に慎重なところがある。豪快に見えて、肝心なときほど手元を見つめる癖を、娘はもう知っていた。
そのとき、店先で小さな泣き声がした。
近所の男の子が、片耳のほつれた古いくまのぬいぐるみを抱きしめたまま、母親の袖にしがみついていた。売りに来たのだろう。母親は困った顔で頭を下げる。
「引っ越しで、荷物を減らさなくちゃいけなくて……」
「やだ。これ、やだ……」
クリストルンはしゃがみ込み、子どもと同じ目の高さになる。
「そのくまさん、ずっと一緒だったんだね」
子どもは鼻をすすり、こくりとうなずいた。
「じゃあね、売るかどうかの前に、まず治そう。耳、痛そうだから」
「えっ、先に?」
母親が驚くと、奥からモンジェが大股で出てきた。
「うちは物の値段の前に、顔色を見る店だ」
そう言ってモンジェは、くまをそっと受け取った。大きな指が、破れた布をつまむ。乱暴そうに見える手つきなのに、ぬいぐるみは少しも苦しそうに見えなかった。
修理が終わるまでの間、クリストルンは棚の上のブリキのおもちゃを鳴らし、男の子の気を引いた。ようやく泣きやんだ子は、直った耳を撫でて、ほっと息をつく。
「売らない」
男の子がきっぱり言うと、母親は困って、それからふっと笑った。
「そうだね。これは持っていこうか」
帰っていく背中を見送りながら、クリストルンは言う。
「やっぱり思い出って、値段つけにくいねえ」
「だから質屋は面白いんだろ」
「お父さん、面白いで済ませてるけど、商売としてはどうなの」
「そこは気合いだ」
「気合いで帳簿つけたら、明日レリヤさんに怒られるやつ」
まだ会ったこともない会社の経理の先輩の名を口にして、クリストルンは自分で笑った。
その夜。店じまいを終えて食卓に着いたとき、一通の封筒が届く。
差出人は、「白椿トイズ」。
クリストルンは息をのみ、封を切った。紙を開いた瞬間、夕暮れより深い色をした目がぱっと明るくなる。
「採用……!」
思わず立ち上がる娘に、モンジェは一拍遅れて目を見開き、それから家が揺れそうな声で笑った。
「よっしゃあ! 見たか月椿堂! うちの娘が天下の白椿トイズだ!」
その声は大きかった。嬉しそうで、誇らしそうで、なのに、ほんの少しだけ寂しそうでもあった。
クリストルンがそれに気づいたころには、モンジェはもう鍋のふたを開けていた。
「今日は赤飯だ!」
「いや、ないでしょ」
「今から炊けば朝には赤飯だ!」
笑い声の奥に、言葉にならない何かが混じった気がした。
けれどその夜のクリストルンは、未来のほうばかり見ていた。