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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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入社前夜の月椿堂は、妙に静かだった。
坂の下から聞こえてくる車の音も、店内の柱時計の針も、明日から変わる何かを見送るみたいに、少しずつ遠く感じる。
クリストルンは居間で明日の持ち物を並べていた。筆記具、メモ帳、身分証、替えのストッキング、のど飴。心配性なのか準備好きなのか自分でも分からないが、並べることで少し落ち着く。
「靴も磨いたし、名札も入れたし……」
「弁当忘れるなよ」
「子どもじゃないよ」
「親にとっては、いくつでも子どもだ」
奥の押し入れから、モンジェが古い木箱を抱えて出てきた。丁寧に布に包まれたその箱を見て、クリストルンは手を止める。
「それ、お母さんの?」
「ああ。嫁入りのときに持ってきた箱だ」
箱のふたを開くと、樟脳のかすかな匂いがこぼれた。中には使い込まれた小物入れや櫛、薄い色の布袋が整えて入っている。派手ではないのに、持ち主が大事にしていたことが伝わる品ばかりだった。
モンジェはその中から、細いリボンを一本取り上げた。光の加減で白にも淡い桃色にも見える、やわらかな布だった。
「明日、これ持っていけ」
「これを?」
「おまえの母さんがな、何か大きい日に結んでたやつだ」
差し出す指先が、ほんの少し震えていた。
クリストルンはそっと受け取り、布の感触を確かめる。使い込まれているはずなのに、驚くほどやさしい手触りだった。まるで、もう会えない母の手を遠回しに触ったような気がする。
「お父さん」
「なくすなよ。俺、それなくしたら、あの世で叱られる」
「私が? お父さんじゃなくて?」
「たぶん両方だ」
モンジェは豪快に笑ったが、視線だけが箱の中に落ちたままだった。
クリストルンは、その横顔を見つめる。
聞きたいことはあった。どうして今これを渡すのか。どうしてずっとしまっていたのか。母はこのリボンをどんな日に結んでいたのか。
けれど、今は聞かないほうがいいと分かった。
「ありがとう」
それだけ言って、リボンを胸ポケットにしまう。
モンジェは短くうなずいた。
「明日、胸張って行け」
「うん」
「困ったら深呼吸しろ」
「うん」
「腹減ったら弁当食え」
「それは分かってる」
「泣きそうになったら」
「……うん」
そこでモンジェは言葉を切った。
クリストルンが顔を上げると、父はいつもの調子で笑い直した。
「まあ、そのときは笑っとけ!」
乱暴なくらい明るい声だった。
でも、クリストルンは見逃さなかった。
箱のふたを閉じる父の手が、さっきより少しだけゆっくりだったことを。