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#海辺の町
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午前の聞き込みに出ると言い切った芽生は、予定表をさっさと書き換えた。莉々夏を連れて商店街の年配者を回り、昇万の店にも寄る。啓介の名前が入っていた欄は、きれいに空白になった。
「休んでください」
「その言い方だと戦力外通告みたいなんだけど」
「今日はそうです」
「容赦ないな」
「容赦しない相手を選んでます」
芽生は帳面を閉じ、少しだけ笑った。そこへ莉々夏が籠を抱えて飛び込んでくる。
「聞き込み隊、出まーす。あ、啓介くん、ちゃんと座っててね。立って追いかけたら私が怒るから」
「なんでお前まで」
「芽生ちゃんの味方だから」
二人が出て行ったあと、離れは急に広くなった。
啓介は縁側に座り、庭の隅に積まれた古材を眺める。何かしていないと落ち着かないのに、今日は何もしないでいろと言われている。それがこんなに難しいとは思わなかった。
しばらくして、鼓夏が湯のみを持って現れた。
「座ってる?」
「見れば分かる」
「その言い方ができるなら、少し回復してる」
鼓夏は隣に座り、湯のみをひとつ差し出した。生姜の匂いがした。
「誰かのために動くのは得意そうなのに」
鼓夏が庭を見たまま言う。
「誰かに自分のために動かれるのは、苦手なのね」
「……そんな顔してました」
「してた」
啓介は湯気を見つめる。返事の代わりに息を吸うと、胸のつかえが少しだけゆるんだ。
「ありがたいんですよ」
ぽつりと口をつく。
「ただ、俺なんかのためにって思うと、変に落ち着かなくて」
「“俺なんか”って便利な言葉ね」
「便利?」
「それ言えば、自分を大事にしなくても済むでしょう」
啓介は苦く笑うしかなかった。
昼過ぎ、芽生たちが戻ってくる。莉々夏は「今日は大漁」と紙束を揺らし、芽生は少しだけ頬を赤くしていた。歩き回ったのだろう。
「どうでした」
啓介が立ち上がると、芽生が一瞬だけ眉をひそめる。
「立たなくていいです」
「そこまで弱ってない」
「じゃあ、半分だけ許します」
そう言って差し出された聞き書きの中に、一つだけ、啓介の手を止める言葉があった。
“あの文を書いてたのは、いつも待っていた子だよ”
その証言を聞かせてくれたのは、港の近くに住む年配の男性だったらしい。
「待っていた?」
啓介が聞く。
芽生はうなずいた。
「誰かを、ずっと」
風が、机の上のふやけた札をかすかに揺らした。
命に終わるまで――ではなく、その先へ続く気配が、初めてはっきり見えた気がした。