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その日の夕方、啓介と芽生は聞き書きの内容を確かめるため、証言をくれた男性の家を訪ねた。港に近い路地の奥、小さな平屋だ。縁先には干した網と、春の日差しで白くなった浮きが並んでいる。
男性は庄一と名乗り、丸い湯のみを二つ出してくれた。指は節くれ立っているのに、置き方はやさしかった。
「札のこと、覚えてる範囲でいいんです」
芽生が言う。
「その“待ってた子”って、誰を待ってたんですか」
庄一は少し考え、困ったように笑った。
「そこがなあ。俺も子どもだったから、全部は分からんのよ」
「でも、見たことはあるんですね」
啓介が身を乗り出す。
「ある。離れの縁側で、あの子、紙切れに何か書いてた。赤いもの髪に結んでな。誰か来るたびに立って、違うとまた座る」
「その誰かって」
「さあな。迎えか、約束した人か」
庄一は湯のみを指で回した。
「大人たちは、あの頃みんな忙しかった。水が引いたあとで、町じゅうが少しずつ元に戻ろうとしてたからな」
「札の続きは」
芽生が静かに聞く。
「覚えてませんか」
庄一はゆっくり首を振った。
「そこまでは分からん。ただな、その文は、怖い終わり方じゃなかった気がする」
「怖い終わり方じゃない」
啓介が繰り返す。
「死ぬとか、終わるとか、そういう顔で書いてなかったんだよ。もっと、待ってる顔だった」
庄一はそう言って、目を細めた。
「子どもなのに、ちゃんと誰かを信じて待ってる顔」
啓介と芽生は帰り道、しばらく黙って歩いた。坂の途中でようやく、芽生が口を開く。
「命に終わるまで、っていうより」
「生きてるうちに、会いたい感じ」
「はい。たぶん、そんな方向」
啓介は空を見た。夕焼け前の薄い青に、糸みたいな雲が一本伸びている。
「誰を待ってたんだろうな」
「それを知るために、まだ集めるんです」
芽生は前を向いたまま言った。その横顔は、答えが遠いほどかえって静かに見える。
寺へ戻ると、遙香が石段の下で待っていた。役場の封筒を抱えたまま、言いにくそうに眉尻を下げている。
「ごめん、今じゃない方がいい話なんだけど」
その前置きだけで、啓介の背中に冷たいものが走った。
#海辺の町