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仕事を終えた諒が訪ねて来たのは、母が帰り、栞に会った日の翌日だった。
前日までの数日間、私の部屋には母が滞在していた。諒と母とは退院後の診察で一度顔を合わせてはいたが、彼が部屋まで来なかったのは、母に気兼ねしてのことだろう。私たちの関係をまだ知らない母に会うことへの気まずさも、あったのかもしれない。
迎えに出た私がまだ少し足を引きずっているのを見て、彼は眉をひそめた。
「しっかり歩けるようになるにはもう少し、って感じかな」
「でも、痛みの方はだいぶ楽になったのよ。こうやって動けるようにもなったし。今、ご飯の準備するから、座って待っててね」
「無理しなくていいよ」
「無理してるわけじゃないよ。リハビリみたいなものだと思って動いてるの」
「だったらいいんだけどさ」
心配顔の諒を安心させようと、私はさらに笑顔を大きくして話す。
「昨日、栞が来てくれてね。その時、食材とかお惣菜とか、たくさん買ってきてくれたんだ。特にやることもないから、その食材で色々作ったの。お母さんが作っていってくれたおかずもまだ残っているし、今日はいつもよりたくさんお皿が並ぶよ」
諒は表情を和らげて、私の隣にやって来た。
「手伝うよ。何をすればいい?」
「冷蔵庫から黄色とオレンジ色のタッパー出して、あっためてくれる?」
「分かった」
諒と一緒に夕食の準備をし、彼と向かい合って座りながら食事をした。食べ終えて箸を置いてから、私は口を開く。
「あのね。栞にばれちゃってた。私たちがつき合ってること」
「あぁ……」
諒は軽く目を見開き苦笑する。
「ばれても全然構わないけどね。機会がなくて、言ってなかっただけだから。でも、いつ気づいたんだろうな」
「病室にみんなが集まってたあの時だったみたい。私たちの様子を見て気づいたって言ってた」
「あの時か……。じゃあ、凛も気づいたかな」
「かもね。でも、うちのお母さんは、気づいていないと思うな」
「根拠は?」
「だって、昨日帰る前に言ってたから」
「何を?」
「またこんなことがあったら心配だから、今付き合っている人がいないのなら、地元に帰ってくることも考えてほしいって。なんならお見合いしたっていいじゃないの、だって」
私としては、単なる報告としての軽い話題のつもりだった。ところが、話し終えて諒の顔を見た途端、余計なことを言ってしまったと後悔した。
彼はひどく固い表情で、感情を抑え込んででもいるような恐ろしく低い声で言う。
「せめて、付き合ってる人がいるってことくらい、どうして言わなかったの?」
彼の様子の変化に驚き緊張し、口の中が乾くのを感じながら、私はおずおずと答える。
「だって、そういう話をするようなタイミングじゃないな、って思ったから……。と、いうか、今の話は別に深い意味は何もないのよ。ただお母さんがそう言ってたっていうだけで……」
諒は無言でのっそりと立ち上がり、私の隣に腰を下ろした。
「こんな話をするのはまだ早いと思ってたんだけどさ」
「う、うん」
諒は私をじっと見つめている。彼の声音も顔つきも、今までになく真剣だった。
「俺は瑞月とこれからもずっと一緒にいたい。俺の傍にいてほしい。瑞月はどう思ってる?」
私はふっと頬を緩め、彼に微笑みかけた。
「そんなの決まってるでしょ。私も諒ちゃんとずっと一緒にいたいよ」
その答えを待っていたかのように、諒は私にキスをした。唇を離し、彼は私の手を両手で包み込む。
「それならさ。今度、指輪を買いに行こう」
「指輪?」
「あぁ。婚約指輪と結婚指輪、両方買っちゃおう」
「婚約?結婚?」
「瑞月、俺と結婚しよう」
嬉しい言葉のはずなのに、その二文字を聞いて、急に不安になった。現実に引き戻されたと言ってもいい。私が諒の妻になってもいいのだろうかと、しばらくの間忘れていた不安が再び頭をもたげたのだ。
表情を曇らせた私に諒は訊ねる。
「瑞月は俺と同じ気持ちでいるわけじゃないの?」
「同じだよ。同じなんだけど……」
私は目を伏せた。
「諒ちゃんは本当にそれでいいのかな、って考えてしまって……。前にも言ったかもしれないけど、諒ちゃんの助けになれるような資格も繋がりも、私は何も持っていない。私と結婚しても、諒ちゃんには何のメリットもないんだよ」
「何を言い出すのかと思ったら……。俺が損得勘定で、お前と付き合ってると思ってたのか?」
「だって、諒ちゃんはおじさんのクリニックを継ぐんでしょ?だったら、おじさんたちはきっと、看護師さんとか女医さんとかと結婚してほしいって思ってるよ」
諒は表情を引き締めて私を見つめる。
「何年もの間ずっと、俺はお前のことが好きだった。そのお前をようやく手に入れたんだ。それがどれだけ嬉しいことか、分かるか?だから、仮に父さんたちが反対したとしても、俺はお前と別れるつもりはない。もしもそんな話が出たら、俺は実家を出る。クリニックも当然継がない。医者を続けるなら、自分でクリニックを開いたっていいし、勤務医のままだっていいんだ。他の選択肢だってある。だけどよく考えてみろよ。俺の父さんは医者だけど、母さんは看護師でも医者でもない。母さんは裏方として父さんを手伝ってるわけだけど、結婚してから医療事務を勉強して、資格を取ったって言ってた。そもそも俺は、結婚しても、仕事だってなんだって、瑞月には好きなことをしてほしいと思ってる」
話し終えた諒は私の手を優しく握った。
「説明、まだ足りないところ、あるか?」
鼻の奥がつんとする。こみ上げてきそうな涙をこらえて、私は微笑んだ。
「ない。十分だよ」
「それなら、答えをくれないか。これ以上返事を延ばされたりしたら、緊張のしすぎで俺の心臓は止まってしまうかもしれない」
諒はおどけた口調で言った。しかしよく見るとその目は笑っていない。
「諒ちゃんのプロポーズ、お受けします」
「なんだよ。ずいぶんと堅苦しい答え方だな」
やっと緊張が解けたのか、諒は表情を柔らかくした。
「プロポーズだけど、後日もう一度改めてするからな」
「今ので十分だよ」
「俺がそうしたいの」
「分かった。諒ちゃんがそう言うなら」
私は笑って頷き、いつの間にか潤んでいた目で彼を見る。
「諒ちゃん、ありがとう。すごく嬉しい」
「うん」
諒は顔中笑みでいっぱいにしながら私の頬に手を伸ばし、ほんの少しだけ長めのキスをした。唇を離し、天井を仰ぎ見て、ため息をつく。
「この続きは瑞月が完治してからだな。仕方ないって分かってはいるけど、今すぐ抱きたいのに抱けないってのは、なかなか辛いや」
「ちゃんと治ったら、たくさん愛して」
私は彼の横顔に向かってそっと言った。
諒は姿勢を戻し、にっと笑う。
「もちろん、そのつもりだよ」
私たちは相手の温もりを確かめ合うかのように寄り添って、指を絡ませ合った。