「いらっしゃい」
玄関に入ると、柔らかな声に迎えられた。
「嫁の彩。お前は会うの初めてだよな」
「はい。是枝彪です。部長には日頃、大変お世話になっております」
俺はペコッと頭を下げた。
「こっちは是枝の彼女の、柳田椿さん」
「夜分遅く、大変申し訳ありません!」と、部長の紹介を得て、椿も頭を下げた。
「いいえ。急用なんでしょう? とにかく入って? 寒かったでしょう」
部長が惚れ抜いた年上の女性は、柔らかく笑う女性だった。
良くも悪くも、普通に優しそうな女性。
俺と椿は勧められるままにリビングに入り、ソファに腰かけた。
すぐに、温かいコーヒーを出された。
「ケーキはもう食べた?」
「え?」
「クリスマスケーキ」
「いえ」
「食べない? イチゴショートとガトーショコラ、どっちがいい?」
「えっ!? いえ、お気持ちだけで――」
「――食ってやってくれ。欲張って二つ買ったのに、子供たちに別のが良かったって文句言われたんだよ」
「そんなこと言ったら、美味しくなかったみたいじゃない」
俺たちの返事がどうであれ、出すつもりだったのだろう。
奥さんはトレイに四つのケーキを載せてきた。
「普通に美味しいのよ? ただ、上の子はモンブランが良かったとか、下の子は普通のチョコレートケーキが良かったとか我儘言っただけで。それでも、しっかり食べてたし」
「おい。俺も食うのかよ? さっき食ったけど」
「誰かさんが、明日子供たちの好きなのを買ってやるとか言うから、私一人で残りを食べなきゃいけないんじゃない。協力してよ」
半ば強制的にケーキを選ぶことになった。
俺はショートケーキ、椿はガトーショコラを選んだ。
バタバタしていたから忘れていたが、夜ご飯を食べていない。
甘さ控えめのショートケーキとコーヒーが美味い。
「で? 急用って?」
「あ、そうだ。これを書いて欲しくて」
俺は鞄から、婚姻届を出して広げた。
部長と奥さんが覗き込む。
「随分と急展開だな!?」
「部長の教え通りに、押して押して押し切ることにしました」
「あっ、そう……」と、部長がチラリと奥さんを見る。
奥さんは、部長が俺に何の教えを説いたのかが気になるようだったが、この場では聞かなかった。
「柳田さんは? いいのか? 付き合って間もないだろ?」
「はい! 彪さんを孤独死なんてさせないと、誓いましたので」
孤独死、に随分こだわってんな……。
見ると、部長がポカンと口を半開きにし、奥さんはクスクスと笑っている。
「是枝、お前、なんて言って押し切ったんだよ?」
「え?」
「柳田さんが見捨てたせいで是枝さんが独りで死んで腐ってたなんて、後味悪いし、化けて出られるんじゃないかって怖いわよね?」
奥さんが笑いながら言い、部長がジロリと見た。
「いえ! 私などと一緒にならなくても、彪さんはきっと素敵な女性と結ばれることと思います。ですが! 私は、彪さんを看取る役目は他の女性には譲りたくないと思いました。なので――」
「――椿、ストップ!」
熱弁が始まり、俺は慌てて彼女の口を手で覆った。
俺には、椿なりの熱烈な愛の告白だとわかるが、他の人が聞けば、どんなボランティア精神だと驚くはずだ。
溝口部長夫妻も、驚いた表情をした。
「言い回しは独特だが、愛されてんなぁ」
部長がフッと笑ってコーヒーをすすった。
「え?」
「死ぬまで一緒にいたいってことでしょう?」と言うと、奥さんは立ち上がった。
サイドボードの引き出しからペンを持って戻り、部長に渡した。
部長はそれを受け取り、婚姻届の証人欄に記入し始めた。
部長の次に、奥さん。
そして、俺と椿の婚姻届は完成した。
「今度ゆっくり遊びに来てね」
奥さんはそう言って、俺たちを見送ってくれた。
タクシーで再び区役所に戻り、十二月二十四日の午後二十三時五十五分に、俺は柳田彪になった。