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店の奥の席が、少しだけ静かだった。
私はそこへ向かいながら、さっきまでの高槻さんとの会話を思い返していた。
「ナナちゃんが笑ってると、結構嬉しいよ」
あの言葉が、まだ頭に残っている。
仕事として言われる言葉には、ある程度慣れている。
可愛い。
楽しそう。
会えて嬉しい。
また来る。
そういう言葉を受け取ることも、仕事の一部だと思っていた。
でも今日は、なぜか簡単に流せなかった。
私は席につく。
「こんばんは」
「こんばんは」
三崎さんがこちらを見る。
「今日は忙しそうですね」
「はい。さっきまで結構ばたばたしてました」
「今も?」
「少し落ち着きました」
「そうですか」
三崎さんはそれ以上聞かなかった。
私は飲み物を用意しながら、ふと思う。
この人は、本当に聞かない。
前なら、それを少し不思議に思っていた。
何か話していると、普通ならもう少し質問される。
「何があったんですか」
「どうしてですか」
「誰といたんですか」
そうやって話を広げる。
でも三崎さんは、必要以上には聞かない。
「……三崎さんって」
「はい」
「気になることがあっても、聞かないこと多いですよね」
三崎さんは少し考えた。
「そうですか?」
「そうですよ」
「気になることはありますよ」
「やっぱり」
「でも、聞かない方がいいこともあるので」
私は少し驚いた。
「どうやって判断するんですか?」
「何となく」
「何となくなんですか」
「ナナさんが話したそうかどうか」
私は黙った。
その答えが、妙に三崎さんらしいと思った。
「私、そんなに分かりやすいですか?」
「分かりやすい時と、分かりにくい時があります」
「どっちなんですか?」
「今日は分かりにくいです」
「珍しいですね」
「そうですね」
三崎さんが少し笑う。
「何か考えてます?」
「……はい」
「でも、話すつもりはない」
「なんで分かるんですか」
「今の顔です」
私は思わず笑った。
「やっぱり見てるじゃないですか」
「見てますよ」
あっさり言われる。
「でも、見てるだけです」
その言葉に、私は少しだけ考えた。
見ている。
でも、入ってこない。
それは思っていたより安心できることだった。
「……それって、難しくないですか?」
「何がですか?」
「気になってるのに聞かないって」
「難しい時もあります」
「じゃあ、どうして聞かないんですか?」
「ナナさんが自分から話す可能性を残したいから」
私は顔を上げた。
三崎さんはいつものように落ち着いていた。
「聞かれると、答えないといけない気がするでしょう」
「……します」
「だから」
三崎さんはグラスに目を向けた。
「話したくなった時に話せる方がいいかなと思って」
その言葉が、静かに残った。
私は誰かに話す時、
「話したいから話す」
より、
「聞かれたから答える」
ことの方が多かった。
何があったのか聞かれる。
大丈夫か聞かれる。
楽しかったか聞かれる。
どう思ったのか聞かれる。
そのたびに、自分の気持ちを言葉にする。
でも、本当はまだ言葉になっていないこともある。
それを無理に説明しなくてもいい。
三崎さんといると、そのことを思い出す。
「……ありがとうございます」
「何がですか?」
「分かりません」
「じゃあ、いいですよ」
私は笑った。
まただ。
三崎さんは、答えを求めない。
「三崎さん」
「はい」
「私が何か言いたそうにしてたら、待ってくれます?」
「待ちますよ」
「ずっと?」
「必要なら」
「でも、私が最後まで何も言わなかったら?」
「それもそれでいいと思います」
私は少しだけ笑った。
「変な人ですね」
「よく言われます」
「誰にですか?」
「今のはナナさんです」
「あ」
笑ってしまう。
三崎さんも笑った。
それだけの会話だった。
なのに、私は少しだけ心が軽くなっていた。
三崎さんに話したわけじゃない。
何も相談していない。
それでも、
「話さなくてもいい」
と思えるだけで、少し楽だった。
しばらくして、三崎さんが時計を見る。
「そろそろ出ます」
「はい」
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
席を立つ前に、三崎さんがこちらを見る。
「ナナさん」
「はい」
「最近、少し自分のことを考えるようになりましたね」
胸が小さく跳ねた。
「……分かります?」
「前より」
「どうして?」
「前は、すぐ相手のことを考えてたので」
私は何も言えなかった。
確かにそうだった。
誰かと話している時も、
相手はどう思うか。
どう返したらいいか。
どうすれば嫌な気持ちにさせないか。
そんなことばかり考えていた。
でも最近は違う。
私は少しずつ、
「私はどう感じたんだろう」
と考えるようになっている。
それを三崎さんに言われると、不思議な感じがした。
「……それって、いいことなんですか?」
「僕には分かりません」
「またそれですか」
「でも」
三崎さんは少しだけ笑った。
「ナナさんが自分で考えてるなら、それでいいと思います」
そのまま三崎さんは席を離れた。
私は一人になった。
店の音は相変わらず大きい。
誰かが笑っている。
誰かが話している。
スタッフが通り過ぎる。
その中で、私はさっきの言葉を考えていた。
自分のことを考える。
それは、思っていたより難しい。
でも、少し面白い。
私は四人のことを考えている。
真瀬さんのこと。
高槻さんのこと。
三崎さんのこと。
直哉のこと。
今までは、誰が好きなのかを考えていた。
でも最近は、
「この人といる時、私はどうなるんだろう」
と考えるようになった。
真瀬さんの前では、言葉がなくても気になる。
高槻さんといると、自然に笑える。
三崎さんの前では、無理に説明しなくていい。
直哉といると、そもそも自分を作ろうとしなくなる。
どれも違う。
どれも嘘じゃない。
だからこそ、まだ答えは出ない。
私はスマホを取り出した。
新しいメッセージは来ていなかった。
それを確認して、少しだけ残念に思う。
誰からの連絡を待っていたのか。
考えてしまう。
私は画面を閉じた。
まだ、決めなくていい。
今はそれでいい。
少なくとも、
自分の気持ちを急いで一つにまとめなくてもいいことだけは、
少し分かってきた。
コメント
1件
ああ、この回、すごく良かったです。三崎さんの「聞かない」って距離感が、逆にナナさんに『自分の気持ちを考える余白』をあげてる感じがして。『話したくなった時に話せる方がいい』って台詞、染みました。最後の『まだ決めなくていい』っていうナナさんの気づきも、無理に答えを出そうとしなくていいんだなって思えて、読んでてほっとしました。
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