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待ち合わせの日は、朝から少しだけ落ち着かなかった。
別に、特別な場所へ行くわけじゃない。
直哉と少し遠くまで行く。
それだけ。
なのに、家を出る前から何度も時計を見ていた。
服を選ぶ時も、いつもより少し時間がかかった。
これでいいかな。
そう思って着替えたあと、また鏡を見る。
別に、誰かに会う時と同じでいい。
そう思っているのに、なぜか気になる。
私は苦笑した。
店に行く時なら、もっと明確だ。
今日は仕事。
だから服も、髪も、表情も、ある程度決まっている。
でも今日は違う。
仕事じゃない。
直哉と会うだけ。
それなのに、私は少しだけ緊張していた。
待ち合わせ場所に着くと、直哉はもう来ていた。
「待った?」
「今来たところ」
「ほんと?」
「ほんと」
私は笑った。
「どこ行くんだっけ?」
「まだ決めてない」
「え?」
「昨日、適当に決めようって言ったじゃん」
「ああ」
そうだった。
私は思わず笑った。
「本当に適当なんだね」
「嫌だった?」
「ううん」
私は首を振った。
「こういうの、嫌いじゃない」
「じゃあ歩こう」
「うん」
二人で歩き出す。
目的地は決まっていない。
電車に乗って、適当な駅で降りる。
駅の近くにあった店に入って、昼ご飯を食べる。
特別に有名な店でもない。
料理も普通。
でも、私は楽しかった。
「これ食べる?」
「そっちの方がいい」
「じゃあ交換する?」
「いいの?」
「いいよ」
そんな会話をしているだけで、時間が過ぎていく。
私は途中で何度か時計を見た。
まだこんな時間。
そう思った。
いつもなら、一日が長いと疲れてしまう。
でも今日は、もう少し長くてもいいと思った。
店を出てから、少し歩く。
途中で小さな本屋を見つけた。
「入る?」
「入りたい」
二人で店に入る。
私は特に目的もなく棚を見て回る。
料理。
旅行。
小説。
雑誌。
直哉が少し先で立ち止まっている。
「何見てるの?」
「これ」
料理の本だった。
「料理するんだっけ?」
「たまに」
「意外」
「どういう意味?」
「しなさそう」
「ひどい」
笑う。
直哉も笑った。
それだけ。
私はその本を少し眺めてから、棚に戻した。
その時、ふと思った。
私は今、直哉が何を考えているかをあまり気にしていない。
楽しいと思っているかな。
退屈していないかな。
私といて大丈夫かな。
そういうことを、ほとんど考えていなかった。
店では、いつも考えている。
相手の表情を見る。
声の変化を見る。
グラスの減り方を見る。
話題を変えるタイミングを考える。
笑うところを探す。
でも、今は違う。
直哉が本を見ているなら、私は私で別の本を見ていればいい。
会話がなくても、何も困らない。
そのことが、妙に新鮮だった。
「どうした?」
「え?」
「さっきから静か」
私は少し笑った。
「考え事」
「また?」
「最近多いかも」
「何考えてるの?」
私は答えようとして、やめた。
真瀬さんのこと。
高槻さんのこと。
三崎さんのこと。
そして、自分のこと。
でも、それを全部説明する必要はない気がした。
「まだ自分でも分かんない」
「そっか」
直哉はそれ以上聞かなかった。
私は少し安心した。
「聞いてほしい?」
直哉が聞いた。
私は少し考える。
「……分かんない」
「じゃあ、聞かない」
私は笑った。
「そこ、聞かないんだ」
「聞いてほしいか分からないなら、今はいいかなって」
「そっか」
「話したくなったら言って」
「うん」
それだけだった。
でも、私はその言葉が嬉しかった。
何かを説明しなくてもいい。
今すぐ答えを出さなくてもいい。
それでも、ここにいていい。
そんな感じがした。
本屋を出て、また歩く。
少し疲れてきたので、途中のベンチに座った。
「疲れた?」
「ちょっと」
「休もう」
二人で座る。
会話はない。
私は前を見ていた。
隣を見ると、直哉も前を見ている。
何も起きていない。
それなのに、私は心地よかった。
しばらくして、直哉が言った。
「今日、楽しい?」
私はすぐに答えた。
「楽しい」
言ってから、自分でも驚いた。
前なら少し考えていたと思う。
相手が期待している答えは何か。
どう言えば喜ぶか。
でも今は、何も考えなかった。
本当にそう思ったから、そのまま口に出た。
直哉は笑った。
「よかった」
その笑顔を見て、私も笑った。
帰る時間になって、駅まで歩く。
「今日はありがとう」
「こっちこそ」
「また行こう」
私は少しだけ間を置いて、
「うん」
と答えた。
駅で別れる。
直哉が先に歩いていく。
私はその背中を少し見ていた。
そして、家に帰る。
スマホを見ると、直哉からメッセージが来ていた。
『今日はありがとう』
私はすぐに返信した。
『こちらこそ』
送信して、画面を閉じる。
そのあと、また開く。
たった二行のやり取り。
それを見ているだけなのに、少し嬉しい。
私はベッドに座った。
今日のことを思い出す。
どこへ行ったか。
何を食べたか。
何を話したか。
どれも特別じゃない。
でも、今日一日を振り返ってみて、
一度も「ちゃんとしなきゃ」と思わなかったことに気づいた。
笑わなきゃ。
楽しませなきゃ。
気を遣わなきゃ。
嫌われないようにしなきゃ。
そういうことを、一度も考えなかった。
それが、こんなに楽なんだと思った。
私はまだ、
これが恋なのかは分からない。
直哉といるから好きなのか。
好きだから、直哉といると楽なのか。
そこまでは分からない。
でも、
また会いたい。
それだけは、はっきりしていた。
私はスマホを伏せる。
そして、少しだけ笑った。
「また行きたいな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
コメント
1件
あおいです、読ませていただきました🌷 「ちゃんとしなきゃ」と思わなかった——この気づきのシーン、すごく響きました。お店で働く時の自分と、直哉さんといる時の自分を比べて「楽だ」と思える。恋かどうかはまだ分からないけど、また会いたいと思える。その静かで確かな輪郭が、丁寧に描かれていて素敵でした。 目的地のない一日、無理に話さなくていい時間。その心地よさがじんわり伝わってくるエピソードでした。