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その三日後、デシアは『春の音』の束をきちんと綴じて持ってきた。
湿気を避けるためなのか、透明なカバーまでかけてある。モルリが受け取って、思わず声を上げた。
「初稿って、こんなにちゃんとしてるもの?」
「人による」
ホレが答える。
「この人は、ちゃんとしてないと眠れない方」
デシアは否定しなかった。長机の上へ人数分を並べる手つきは静かで、でも少しだけ緊張して見える。
サベリオも一冊受け取った。
表紙の題名は変わらない。けれど、前より少しだけ字が強くなっていた。
読み始める。
舞台は一晩。春になりきれない冷えた夜、橋の下へ雨宿りの人たちが集まってくる。喧嘩した帰りの姉妹、終電を逃した会社員、告白できずに立ち尽くす学生、道を間違えた老夫婦。ばらばらの事情で入り込んだ人たちが、しずくの音と他愛ない会話の中で、少しずつ同じ夜を分け合っていく話だった。
派手な事件はない。
でも、誰かの肩から雨が落ちる音まで見えるみたいだった。
ヌバーが最初に口を開く。
「これ、好き」
単純な一言なのに、ふざけていなかった。
ミゲロも黙ったまま頁をめくっている。ホレは途中で二回、紙の端を押さえ直した。ジャスパートはト書きに出てくる音の指定へ鉛筆で印をつけている。
デシアは皆の顔を一人ずつ見たあと、小さく息を吐いた。
「まだ足りないところはあると思う」
「ある」
グルナラが即答する。
モルリが身構えたが、グルナラが指したのは内容ではなかった。
「予算じゃなくて構造。主役欄が空白」
全員の視線が、台本の最初の配役表へ集まる。
そこには脇役たちの役名が並んでいるのに、中心に立つはずの人物の欄だけ、ぽっかり空いていた。
モルリが口をとがらせる。
「わざとだ」
デシアは少しだけ肩をすくめた。
「決めてから書くより、声が見えてから置きたかった」
「でも空欄じゃ稽古しづらい」
ホレの言う通りだった。
誰の物語として観客が追えばいいのか、まだ輪郭が足りない。橋の下へ入ってくる人たちを受け止める、ひとつの声が必要だ。
サベリオは、そこで頁を閉じかけた。
嫌な予感がしたからだ。
なのに、案の定という顔で、モルリが両手を机についた。
「じゃあ、決めよう」
「簡単に言う」
ヌバーが苦笑する。
「こういう時は簡単に言う人が必要なの!」
彼女の目が、まっすぐサベリオへ向く。
嫌な予感は、だいたい当たる。