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話終えて見上げた諒の顔には怒りが浮かんでいた。
「警察沙汰にするような状況じゃなかったってことは、一応は理解したよ。だけどまさか、あの男がらみの話がまだ続いていたなんてな。しかもそんな逆恨みのような理由で、瑞月をこんな目に遭わせたなんてさ。許せない」
私は掛布団の中からのろのろと手を出し、彼をなだめようとしてその手に触れた。
「諒ちゃん、そんな怖い顔しないで。今度こそ、全部終わりだと思うから」
諒は眉間に入れていた力を緩めた。
「終わり?どうしてそう言い切れるんだよ」
「だって、彼女はもう、うちの会社では働けないと思うの。今回部内でちょっとトラブルがあってね。彼女には、もうやめてもらうような話の流れになっていたんだ。そういう訳だから、彼女と私が関わり合うことは今後ないと思うの。それにね。救急車を呼んだのは彼女だったって聞いたわ。階段から落ちる間際に、彼女の悲鳴を聞いたような気がする。『大原さん!』って。初めから、私を突き落とすつもりでいたんなら、あんな風に驚いた声は出さなかったんじゃないかな。彼女もきっと、まさかあんな事態になるとは思っていなかったんだよ」
「言いたいことは分かったけど、今回のことが事故だったとして、相手が瑞月の手を急に引っ張ったせいで、こういうことになったわけだろ」
「そうだけど、でも、ほら、命に別状はなかったわけだから。もういいの」
「まったく……。これだけの怪我をさせられたのに、もういいだなんて、瑞月らしいと言えば瑞月らしいけどさ。瑞月がそう言うんなら、俺のこの怒りはなんとかして鎮めることにするよ」
諒は苦笑いを浮かべてため息をつき、私を見る目を優しく細める。
「悪い。少し喋らせすぎたよな。間もなく消灯の時間だし、明日の朝、また様子を見に来るよ」
「うん、ありがとう」
「早く良くなりますように」
諒は私の手を両手で包み込み、指先に唇を近づけた。
その時ドアがガラリと開いた。
諒は慌てて私の手を離し、椅子から急いで立ち上がった。
ドアの所から私に向かって声がかけられる。
「大原さん、消灯ですよ。電気消しますね。……あらっ?久保田先生?」
驚いたような声が上がった。
「あ、はい。お疲れ様です。えぇと、帰る前にちょっと患者さんの様子を見ていこうと思いまして……。師長はまだお帰りじゃなかったんですね」
諒の声にはどことなく焦りがにじんでいた。
声の主に今の場面を見られてはいないはずだと思っても、恥ずかしくて顔が火照る。それを隠したくて、私は掛布団の中に顔の半分を埋めた。
諒が『師長』と呼んだその女性は、口元に笑みを佩く。
「先生、そんなに慌てなくたって大丈夫ですよ。私の勝手な想像ですけど、もしかしてそちらの方が例の噂の方なんですか?」
「え?噂、ですか?」
諒は不思議そうに首を傾げて聞き返した。
彼女の口元はますます緩む。
「いえね。最近、久保田先生の表情や雰囲気が柔らかくなった、絶対にいい人ができたせいだなんて、若い子たちが話していたんですよ。別にこれまでが冷酷だったという意味じゃなくてですよ」
「あはは。分かってますよ。でも、そうでしたか。そんな噂があったんですね。知らなかったな。油断してました」
諒は否定しなかった。私のことをついに知られてしまった、とでもいうような顔をして笑っている。
その横顔を眺めながら、私はふと思い出す。
そう言えば、恋人のふりをしてほしいと諒に頼まれたことから、私たちの関係は始まった。その目的は、この病院に勤務するある女性スタッフに、諒のことを諦めさせるためのものだった。
諒は彼女ににっこりと笑いかける。穏やかで人当たりのいい笑顔の裏で、しめしめとでも思っていそうだ。
「実はですね。師長にだけ話しますけど、仰る通り、彼女は俺の大事な人なんです」
私は照れた。「大事な人」という言い方で、誰かに紹介されたのは初めてだった。
彼女は私に柔らかく微笑みかけ、それから諒に向き直る。
「今のお話は、内緒にしておきますね。だから、安心してくださいな。とはいえ、私が口を滑らせなくても、ナースたちのほとんどは、今日の先生の様子からすでに気がついているかもしれませんね。先生の意中の人が入院して来た、って。だから、皆にからかわれるくらいの覚悟は、しておいた方がいいかもしれませんよ」
「できるだけお手柔らかにお願いしたいですね」
彼女はくすりと笑い、口調を改める。
「さぁ、先生はもうお帰り下さい。ご心配なのは分かりますけど、こちらでしっかりと看護しますからお任せください。私たちが優秀なのは、先生もご存知でしょ?」
「はい、もちろん。それでは後はよろしくお願いします」
「承知しました」
「じゃあな、瑞月。おやすみ」
諒はいつものように私の名前を口にした。彼女の前で私との関係を隠すことはやめたようだ。
「電気消しますね」
部屋の照明が落とされた。
諒はもう一度だけ私を振り返ったが、師長の彼女に促されるようにして病室から出て行った。
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